一人のルール

 それはカウンター席がメインで、女の一人客は、入ろうとした途端、
無言の拒絶で追い返される類いの小さな店だった。
 が、果敢にも席に着いた女性がいた。
 それがすでにルール破りなのだが、もし、孤高に料理を味わい酒を傾
けるなら、その威厳に敬服して、店内に走った緊張はゆるみ、完結した
一枚の絵として、周囲に馴染んだだろう。
 しかし、彼女は店主を話し相手に選んだ。二つ目のルール破りである
が、夫と子供があまりに身勝手なのに腹が立ち、カレーだけ作って、書
き置きし、東京から新幹線で来たとか、この店は本で見て一度来たかっ
たのだと声高に話される内容は、できれば耳を塞ぎたかったし、料理に
忙しい店主に適当にいなされているとわかると、一つ席を置いて隣り合
った私達に「ご主人は家でお留守番ですか」と話しかけてきて、その時
点で、彼女は一人客の失格者に確定した。
 パリ行きの飛行機で、隣に座ったノルウェー人と、飛行機が着くまで
喋りづめたことがある。
 日本の学会に出席したのだが、同僚と一緒に行動したのでは周りをよ
く見なくなるので、移動も観光も一人を選んだ、と言う彼から、彼の目
に映った日本人の不思議を聞かれ、日本女性の社会的地位にまで発展し
た個人的見解を話したら、彼の初婚は妻のアル中で終焉を余儀なくされ、
二度目の結婚もうまくいかず、今独身、という話が出た。でも、私の話
に触発されて、つい、その程度のプライベートなら口にしてもいいか、
と彼の心が動いたとわかったので、素直に聞けたし、日本では十月十日
で出産と言い、一方、ヨーロッパでは九ヶ月で、向こうの人はみんなで
きちゃった婚なんですねえ、と半ば冗談で言った私の言葉を、医者とい
う職業柄、聞き逃せなかったのだろう。ちょっと考えて、数え始めるス
タート時点の違いによる差であり、どちらも正しい、と説明してくれる
など、会話の大半は、相手から飛び出てくる言葉に知性が刺激され、話
題が次の話題を呼ぶ、豊かなものであった。
 家族や職業、学歴。それらを初めから中心的な話題にもってこようと
するのは、社交術の中でも一番程度が低い。
星の王子さま』ではないけれど、ウワバミや原始林や星の話に終始す
る会話ができたなら、その時間は、きっと夢のような楽しさになる。
 もっとも、温かい心を取り戻すなら、先の女性客は、本質的に一人が
不向きの、それゆえ、いい奥さんなのだろうと想像はつくのだが。