傷つかないコツ

 人は、ひとの言葉に傷つく。
 言葉を発する側は、相手をへこませたいと明確な意図を持った確信犯
である場合もあれば、そうでない場合もある。
 結婚した夫婦に「子供はまだなの」と訊ねたり、第一子が少し大きく
なっても「そろそろ二人目は」とせっついてはいけないという暗黙の了
解、ではないな、近頃は、意図してそうしている人達ばかりではないと
テレビや新聞が熱心に教育してくれるおかげで、良識ある大人は、その
手のことを口にしないテクニックを身につけた。
 いいなあ、そんな風に気を遣ってもらえて。
 ちょっぴり羨ましい。
 たまたま言葉を交わすことになった赤の他人から「ご主人」とか「お
子さん」という言葉が飛び出すと、私は「結婚していないんです」と訂
正するのだが、ハッと息を呑み、続く言葉は「あ、ごめんなさい」。
 それはもう、見事なぐらいワンパターンである。
 そうかあ。未婚だと、謝られるんだ。
 彼女達と同じ主婦になっていて然るべきなのに、そうなれていない、
欠けたところのある人間として憐れまれてしまったわけね。
 でも、傷つかないし、私を憐れむことのできるあなた達はさぞや幸せ
な結婚生活をお送りなんでしょうね、と皮肉の反撃に打って出たりもし
ない。
 咄嗟に出てくる「あ、ごめんなさい」。
 その言葉から、我が人生を偉大なる平均値と信じ切っている人の無邪
気さが推察されるばかりである。
 悪気がないほど悪いことはない、と言ったりするけれど、人は、自分
が出会う人すべての心のアキレス腱を事前予知するなんて不可能なのだ。
だから、相手の返答や奇妙な反応に、あ、しまった、と青ざめる。 
 謝ってくれるのは、自分の価値観の押しつけだったと気づいたがゆえ
の謙虚さ。それを、さらに傷口に塩を塗る行為であると責めるなら、い
つか、今度は自分が迂闊なことを口にする日を思って、怖くなり、誰と
も話ができなくなるであろう。
 などと考えていたら、私がなぜ傷つかないのか、突き止められた、気
がする。
 言われた言葉をどう感じたか、私の感情に焦点を当てるのでなく、な
ぜ、この人はそう発言したんだろう、とその人の言葉の背景を探ること
に意識が向かう。
 ひとにわかってもらえるほど単純な私ではない。そんな明るい諦めが、
結果として自分自身を護る盾になってくれているような。