企業秘密を持つ人

「心ひとつですね」
 用件が済んでから、生命保険の外交員で〃所長〃という肩書きの女性
に、外交員として成功する人としない人がいるその差は何かと訊ねたら、
返ってきたのがこの答えで、私は心の中で唸る。
〃やる気〃と発想は同じだが、この言葉には、万一うまくいかなくても、
他人や環境のせいにせず、自分自身に責任ありとする気構えがある。
 なんとも厳しい。だが、それを信条にする人だから、所長になれたの
だろう。
 とは言え、それだけでいいなら、誰だって成功できる。
 もっと具体的な理由もあるはず。
「それは企業秘密です」
 おんな芸人が、米倉涼子に、誰にでもできる美しいポーズを教えてく
れと頼んだら、「そんなの教えられない。企業秘密だもの。私は自分で
いろいろ考えて見つけたから、あなたも自分で探して」ときっぱり拒否
された場面でも耳にした〃企業秘密〃という言葉。成功した人は皆、そ
ういうものを持つようになるのだろうか。
 私は、一般論でいいので、と食い下がった。
 すると、
「お客さんと接しているうちに、引き出しがいっぱいの大きな箱みたい
なものができて、このお客さんにはこの引き出し、と選べるようになる
んですよね」
 すごく抽象的だが、すごくよくわかる。
「所長になって部下を抱えたら、自分の営業の時間が取れなくなりませ
んか」
 と聞いたら、
「それがよくしたもので、時間がないとなると、人間、考えるようにな
るんです」
 と言われ、私は、考えない人間への批判を言外に深読みして、思わず
身が引き締まる。
 所長になったのは「入社一年目に、ならないかと言われて、何もわか
らないまま、はい、と言ったからなんです」
 成り行きだったと強調しようとして、ますます、この人は特別、と思
わせることになったのは、同席している入社九ヶ月目のぽわんとした女
性が、私以上に目を丸くしていることからもわかる。
「あの頃は、がむしゃらでしたから。今はもう、あんな風にはできない
けれど、あの頃の頑張りがあったから今があると思っています」
 夫と死別し、人生で初めて働く身になったが、この仕事のおかげで、
子供を大学と高校に行かせられている、と笑顔の彼女。
 結局、彼女の秘密は〃心ひとつ〃という最初の言葉で言い尽くされて
いたことになるのだが、それにしても、やっぱり切羽詰まった状況は必
須なのかなあ、とまぶしく彼女を見上げて、私は思う。
 専業主婦には逃げ場がある、ということだ。