百パーセント、自分が悪い

 不愉快な状況が続くなら、「自分が悪いと考えてみる」のは、そこか
ら抜け出て幸せに生きるための、私なりの闘い方だ。
 誰かの自分に対する仕打ちが理不尽だったとしよう。
 まずは、自分自身に落ち度はないかと問うてみる。
 すると、自分の態度や言葉が相手を苛つかせている可能性を思い付く
かもしれない。必要以上におどおどした自分の態度が相手をつけあがら
せていると気づくかもしれない。
 気づいたなら、そうでない自分自身に変わるだけ。ほどなく、自分を
取り巻く状況が変わったことを発見するだろう。
 とは言うものの、あんな卑劣な相手にまともに取り合うことはない、
と結論を出す前に三半規管を病む経験をしたことが私にはあって、いつ
も簡単にいくと言う気はない。
 まあ、あの時は、一人の人間を見限るという、同じ人間としてあまり
に不遜な決断を下すことになったわけで、感情に走ってでなく、病気に、
もうそう考えていいんじゃないかい、と背中を押されてその結論に達し
たことを、今では、よかった、と思っている。
 ところで、この思考法を小学生には理解できない、と前回書いたのは、
本心ではない。
 問題は、まだ親の強力なバリヤーの中で生きているため、別の考え方
をしてごらん、と言ったところで、気に染まないことを言う大人だと嫌
われ、また、その子の親にも疎まれるだけで、言うだけ虚しいから言わ
ない、ということなのだ。
 だって、あの「不登校のち別室授業」児が、ほかの子を叱る先生を見
て先生が怖くなったと言うなら、私の英語のレッスン中、その子が煽動
してほかの子が悪い態度になり、その子を叱るべきだが、不本意ながら
別の子だけをきつく叱る私を、その子はなぜ怖がらない。これでは〃先
生怖い〃は学校に行かないための屁理屈になってしまう。が、その子が
泣いてすがるため、レッスンをそばで見るようになった母親は、その矛
盾に気づかない模様。
 子の言い分に耳を傾けたあと、たとえば、「悪いことをしたら、叱ら
れるのは当然」と諭すように、正しい方向に導いてこそ、真の愛ではな
いのか。
 その必要なしに上の子が「優秀な子」に育っているだけに、自分が悪
いとは発想してみることすらないのだろう。だが、下の子は不登校にな
った。
 それに、周りの大人もいけない。
 思うところはあっても口を噤んでいるからで、その母親の、子に対す
る態度と同じである。
 そこまでの親友ではない、というのが一つの回答になるのかなあ。