沈黙という支配

 フランス人と結婚した友がいる。彼らはオーストラリアで知り合った。
 オーストラリアに住んでいた頃、友は、言い合いのような状況になる
と、ダンナに対して、よくだんまりを決め込んだそうな。
 本当に仲が良い二人なので想像しづらいのだが、他人の前と二人きり
の時では見せる顔が違って当たり前。
 今はそういうことはなくなったということは、当時は、二人の共通語
である英語だと思いを正確に言葉に置き換えられない、そこに焦れて友
は黙ってしまったか。あるいは、それが理由ではなく、でも、何語であ
れ考えはちゃんと言葉で言い表わした方がよい、と考えを改めるように
なったのか。
 ともかく、ひとごとながらも、よかったなあ、と思う。
 会話の拒絶は、相互理解の拒絶。
 持論が正論だという態度で、はなから聞く耳持たない相手だと、あな
たの意見に賛成しないが、あなたがそう考えることは尊重する、という
ところまで行き着けず、話すだけ時間の無駄だった、で終わる可能性が
見え、沈黙を選ぶことはあるだろう。
 しかし、夫婦のあいだにそういうことが起こるなら、夫婦として成立
しない。
 ということは、その場合のだんまりは、受け身の支配。
 何も意見も言わず反応しないことで相手を不安にさせ、自分の思い通
りの言動を相手から引き出そうとする支配の仕方になる。
 友のダンナもおろおろしていたというから、当時の友は作戦勝ちだっ
たのだろう。けど、その態度を続けていたらどうなっていたか。
 なんせ相手はフランス人。
 別の友達で、フランス人と結婚してパリに渡った女性も、口論を避け
ようと涙を流したら、
「泣かずにちゃんと言葉で話しなさい」
 とダンナに言われ、この人、人間なの、と愕然としたそうが、私には、
ダンナの方こそ人間だと思えた。
 思いをうまく言葉にできないかもしれない。それでも言葉にしようと
する。
 その努力を放棄して、自分の気持ちを推察せよという態度に出られ、
的はずれな推察しかできなくて腹を立てられたりした日には、
「やっていられない」
 匙を投げたくなったとて、こちらに責任はあるまい。
 ところで、沈黙や涙で相手をコントロールしようとする下心が感じ取
れる場合、そういう態度は卑怯であると正面切って糾弾することができ
るが、自分の気持ちが自分でわからなくてそうされる場合は、こちらが
いたたまれなくなる。
 自分自身の気持ちがわからなくなってしまうほど誰かから精神的に支
配され続けてきた結果なのだろう、と想像できるからだ。