過去は、イコール恥

 日本では、三月は、四月からの新たなスタートを思う季節だ。
「うわあ。もう三年生と五年生!」
 英語の家庭教師先の小学生は、初めて出会った二年前、もっとかしこ
まっていたはずなんだけどなあ。
「猫をかぶってたのよね」と彼女達の母親。
「今は舐められてますかねえ」
 すると、下の子が「猫なんかかぶってない。舐めてない」とムキにな
るので、猫のかぶり物をかぶったことはないし、私をぺろりと舐めたこ
ともないと真顔で訴えているようで、一層、笑いが弾ける。
 と、上の子が「先生。一年前に戻りたい」と聞く。
「戻りたくない」
「一歳、若いのに」
「今より馬鹿だった私には戻りたくない」
 本心である。
 たとえば、以前、塾などにやらなくても、父親が家で子供に教えれば
いいのにと思っていたのは、テレビでそういう光景を見て、浅はかだっ
たと考えを改めた。ところが、それこそ浅はかだったと、今、私は実感
している。
 ある知人が、今年、子供を私立中学に入れるため、旦那は社会と算数、
彼女は国語を担当して、子供の受験勉強に伴走したのだが、中学を選ぶ
際、過去問題を見て、そういう知識は十二歳の子供に本当に適切か、と
か、そういう問題を出すことで子供にどんな能力を求めようとしている
のか、という観点から学校を取捨し、子供の受験対策には、設問内容か
ら何が要点として答えに求められているかを読み解くことを、子供にし
つこく訓練させたという。
 結果は合格。
 別の知り合いは、大学受験の子供が、自信のあった推薦の試験に落ち、
全く勉強していなかった二教科を二ヶ月ほどで準備せねばならず、とて
も無理だと落ち込んだ時、「起こったことにはすべて意味がある。今は
わからなくても、わかる日がきっと来る。とにかく、そう信じて、今は
全力を尽くして試験勉強に取り組むんだ!」と言うと、彼もまた、時間
が許す限り子供の勉強に付き合い、落ちた学部も含めて、四学部から合
格通知が届いたそうな。
 私がテレビで見た父親は、学力優秀でも、人を教える技術のない人だ
ったわけだ。それを、親が子を教えたのでは子供に逃げ場がなくなると
短絡的に一般化した。当時の私の未熟さである。
 だが、その思い込みは糺されることになった。
 時が経ち、新たな事実と出会えたおかげだ。
 それを思うと、どうして一年半前の愚かしい精神に戻りたいなんて望
むだろう。
 肉体だけ十八歳どまりにしてくれるなら、いいけど。
 いや、アンバランスで、気味が悪いか。