褒められ慣れていないと

 英語を教えている保育園で、幼児を迎えに来て、抱き上げたおかあさ
んがちらっと視界に入ったと思ったら、その隣にぐんと若い女性がいて、
あ、おかあさんはそっちなんだ。
 彼女達が帰ってから、「若いおばあさんねえ」と驚きを口にし、つい
で、「おかあさんはヤンキー?」と言葉が滑り出た。
「昔はそうだったんだと思う」。保育士がしみじみ頷く。
 私は、一瞬の観察力が正鵠(せいこく)を射たことに嬉しくなるが、
ヤンキーって何だっけ、と疑問が湧いて、心が立ち尽くした。
「不良」と同義語という理解でいいのか、その手の格好をした人のこと
か。
 じゃあ、心はヤンキーでも外見は普通、とか、その逆の場合はどうな
るの・・・。思考の泥沼に入り始めた私に、個人的に英語を教えている
小学生が言った。
「先生、ヤンキーみたい」
 私はかなりの近眼で、飛蚊症も併発していて、これ以上、目のトラブ
ルは引き寄せたくはなく、日差しが強烈になったら、サングラスは必需
品。それを「ヤンキー」と批難された。
 サングラスとヤンキーの相関関係について議論したいが、その前に、
「ヤンキーって?」
 すると、
「地べたにしゃがみ込んだりして、怖そうな人」
 小学生なりに自分の言葉で見解を述べてくれたので、互いの認識にズ
レはないと判明。
 私がわざわざ確認したのは、もしかして、英語のオリジナルの意味で
遣ったかも、とその可能性に配慮したからで、と言うのも、小学生ほど
に若い世代ともなれば、同じ言葉でも別の意味で遣っていることもあり
そうだと、常々、用心する気持ちが発動するせいだ。
「先生はビジンやから」
 彼女の妹に言われた時も、そう。
「え?」
 私は呆然と聞き返した。
「美人。知らへんの。綺麗な人のこと!」
 褒めたのに、伝わらなくて、苛立たせることになったのは申し訳ない
が、「男前」が「ハンサム」にその座を奪われてしまったように、「美
人」も死語になったように錯覚し、にもかかわらず遣うのなら、別の意
味があるはず、と素直に受け取れなかった。
 美人と言われ慣れていないから、というのは、もちろんある。
 だって、私は身長の割に足が長く生まれついていて、そういう物理的
な事実は、無条件に褒め言葉を引き出しそうなのに、黙殺されて、私自
身、滅多に思い出さないぐらいなのだ。
 頭が良い人は、成績が良いのが当たり前で、滅多に褒めてもらえない
ようなものだろうか。
 だったら、あの時、なぜ、私は「美人」って言ってもらえたんだ。
 急に、その真意が不安になってきた。