美味しいものは、どこにある

 近所で祭りがあった。
 小規模だし有名でもなく、行ったことはなかったが、ヘアサロンで、
「結構、面白いですよ」と言われたので、夕方、出かけてみた。
 つまらなくても、夕涼みの散歩にはなる。
 それに、私は金魚がほしい。
 昔、父が庭を掘ってコンクリートで埋め、金魚を放したら、とても大
きく育ったっけ。家には熱帯魚もいた。
 今になってその郷愁かなあ。
 いや、もっと単純に、金魚すくいが夏の風物詩の、日本人ならではの
金魚への親近感が、ふと強まったのだと思う。
 大通りに面した屋台は、店番の若い女性二人が醸し出す雰囲気のせい
か、心が躊躇する。
 もう一店、奥まってごちゃごちゃした場所にあるのは、「一回二百円。
何匹取れても、二匹か、おもちゃの金魚を一匹」と貼り紙も出ている。
 何か安心できて、一人で店番している若い男性に二百円差し出した。
 帰りに金魚を持ってスーパーに立ち寄り、水槽はないので、値引きに
なった昆虫用の飼育箱を購入したら、金魚が二匹では淋しすぎる大きさ。
 翌日、金魚すくいをしに戻った。
 それにしても、どっちの店でも金魚は金魚。なのに、なぜ、私は店を
選り好みしたのだろう。
 私の嗅覚がそれほど鋭く正しいなら、なぜ、食べ物屋さん探しの時に
は発揮できないのか。
 友と遊びに行く時、私は、私の町でも、『今、評判の美味しい店』の
類いの本にすがろうとする。
 行った周辺にめぼしい店が見つからない場合の安全牌のつもりだが、
その時になると、他の店では駄目な気がしてくる。
 が、さすが本で紹介されただけのことはある、と驚嘆する味に出会え
るのは、稀。
 先日、フランス人達に同行して、彼らが「ここにしよう」とふらりと
入る店がどこもそう悪くないことに、私は愕然とした。
 私が「この店にしましょ」といざなう時、私は、友をがっかりさせた
くなくて、味の評価がシビアになり、満足できなくて、私が直感で店を
選ぶと失敗すると感じ、すると、ますます「はずれ」に出くわすことが
多くなる、そんな負のスパイラルにはまりこんでいたのだろうか。
 腸に良い物を食べてダイエット、という趣旨の本に、空腹で「ここで
いいや」と入ってがっかりする「うっかり失敗」より、「しっかり安心」
を求めておにぎりを持ち歩く、と読んだ時は、味覚の同類、と感じて嬉
しかったが、舌が肥えると、お家ご飯に回帰するのかも。
 それも、玄米ご飯にシャケを焼いたの、みたいに、つましいのにね。