言葉は太陽

 英語の家庭教師先の小学五年生は、私が、レッスンに使うから前のノ
ートを出してきて、と言ったりすると、まず「めんどくさ〜」と言う。
 レッスン後の夕食の席では、「美味しい」と言って食べていたのが、
後半になると「まずい」。
 途中でまずく変質するわけはなく、おなかがくちくなって感じ方が変
わったのなら、もっと正確な表現があるだろう。「もう、おなかいっぱ
い」とか。
「まずい」は、絶対に、その同義語ではない。
 それに、まだ、それを美味しいと食べている周りの私達を否定するこ
とにもなるから、あまりに失礼というものである。
「面倒くさい」は、たとえ本心でなく口から出たのだとしても、言葉が
音となって耳から脳に伝わると、そうだ、怠けちゃえ、と自分自身を行
動させるよう作用する。そうして気力のない人間になるのは本人の勝手。
 問題は、その言葉を聞いた者達にまで同じ作用が及ぶこと。
 実際、私は「あー、めんどくさ」と反射的に思うことが増え、慌てて
いる昨今なのだ。
 親戚の中に、母に電話をかけてきて話すことといったら、からだの不
調を大袈裟に言い立てるだけ、という人がいるが、たまたま母の外出中
に私が電話を受けた時は、これ幸いと、母は電話をかけ直さない。私が
ちゃんと伝言しなかったと誤解されそうなのは厄介だが、これぞ最良の
自己防衛策、と私は心の中で母に拍手喝采である。
 小学五年生のことは、仕事なので、そんな風に斬り捨てられないので、
私はその子に注意をする。懲りずに注意を繰り返す。
 いつか心に届く、と信じて。
 つらいことが起こったと打ち明けられるのは、そういう重い話をした
い相手とみなしてもらえたことが、嬉しい。
 だが、まだ起こってもいないことを悪く想定して、怯え、恐怖するの
は、全然別。
 私は、つらいこと、悲しいこと、悔しいことには大いに同苦するが、
やがては、過ぎたことは過ぎたこととして、再び太陽に向かって歩き出
そうと思考する人が好きだ。
 その太陽は、自分の言葉。
 明るければ明るいほど、心が晴れやかになる。晴れやかになった心は、
きっと、より良き未来を連れてきてくれる。
 友が負の思考スパイラルに陥ったら、私は、一緒になって溺れたりせ
ず、友の代わりに太陽となるべき言葉を探そうと踏ん張る。
 それで気がついてくれる人達ばかりなのでありがたいが、そういう人
達だけが友に残っている、と言えるかも。
 私に友は少ない。でも、十分幸せだ。