おみくじは当たる

 神社に行くと、私はよく御守りを買う。先日奈良に一緒に行った友達
に「よく買うねえ」と言われ、やっぱりそうなのかな、と思った。
 そこを訪れた記念が一番の理由だが、神社は入場料を取らない。神様
はお金を必要としないから、それが普通と思いそうになるけれど、神社
の維持にも、そこで働く人のためにも、お金はいる。そういうことがち
ゃんと整っているおかげで、すがすがしいひとときを過ごさせてもらえ
ると思うと、私なりにできるお礼がしたくて、御守りにそういう思いを
込めるわけだ。
 おみくじは適当なことが書かれているだけだとしか思えなくて、問題
外。
 だったのだが、ある人に、自分は必ずおみくじを買う、なぜって、誰
かが親切心から言ってくれても、素直に聞けないのが人間だが、神様の
言葉なら謙虚な気持ちで聞ける。それに、あとで読み返すと、その時の
自分に一番必要なことが書かれてあったことに驚く、と言われると、お
みくじに興味が湧いてきた。
 今回の奈良の旅では、四回おみくじを引いた。
 お水取りのあと、二月堂で引いたのが「凶」。翌日、大神(おおみわ)
神社で引くと「中吉」に上昇するも、その数時間後の狭井(さい)神社
では再び「凶」。翌日、春日大社で引いたのが「中吉」。
 最後に示された運勢が現在に通じるとするなら、今は「中吉」の余韻
の中にいることになり、私はめげたりしない。
 二度目の「凶」には、さすがにたじろいだけど。
 しかし、同じ「凶」でも、二月堂のは有無を言わせぬ潔さが、好き。
「喜び事なし」「望み事かなひがたし」「生死は十に八九は覚束(おぼ
つか)なし」・・・まるでとりつく島がないんだもの。
 それでも、こうすれば運気を変えられる、と示唆する言葉も書かれて
いて、その言葉こそが重要なのだろう。
 そして、四枚のおみくじのおかげで、おみくじなんてまぐれ、とも言
えないと感じ入った。
「凶」「中吉」「凶」「中吉」の繰り返しになったのも不思議だが、二
つ目の「中吉」と三つ目の「凶」のアドバイスが「心も言葉も皆すなほ
を保つべし」とまったく同じ文言(もんごん)だったのだ。
 旅の途中、友が妙によそよそしくなり、しばらくして、私の言葉はじ
っくり考えると正しいけれど、もう少し言い方を考えてくれたらいいの
に、と言われた。
 おみくじのアドバイスどおり素直に言い過ぎて、友とぎくしゃくした
のが「凶」。でも最終的にわかってもらえて「中吉」。
 そう理解してみましたが、あっていますか。神様。