宗教は分断する

 うろこのある魚なら全部OK。
 だから、アメリカ人の母と娘はデパートで和食レストランを選んだの
だろう。
 ショーケースの料理サンプルを見て、食べられる物を選んでもらう。
 アメリカ娘は、マグロ丼の「マグロをサーモンに代えてほしい」、そ
してセットメニューのお盆の中の大根サラダを、
「これだけ食べたい」
 私は鼻白むも、レストランの黒服男性支配人にそう伝えた。
 母親は、マグロ丼と、娘に倣(なら)って、
「私も大根サラダを単品で」
「値段は好きにつけてください」
 私は黒服に言う。言外に、ぼったくってくれてもいいですよ、と匂わ
せる。
 その日は私は一銭も使わなくていいからと事前に母親アメリカ人から
言われていて、それで気が大きくなったのではない。
 メニューにない物を注文するなら当然よね。
「どんぶりに入っている山芋はどうしましょう」
 黒服が問う。
 お、外国人を知っていますねえ。
 一般的に外国人は餅や山芋など、口の中でねばねばする食感を嫌う。
 わかっているけど、
「入れておいてくださって、いいです」
 彼女達に山芋の説明するのは面倒。でも、野菜なんだから文句はない
でしょ。
 ちょっと意地悪。
 案の定、母親が、
「これ何。なんの味もしない・・・」
 奇妙な顔をしたが、
「野菜です」
 断言すると、素直に食べ続けた。
 彼女は、私が頼んだ松花堂弁当の食材に興味を示す。
「それは何」
 自分が食べられなくても、好奇心は封じ込めない。
 その態度は好感である。
 彼女は、帰国日に成田から電話をしてきてくれたし、その時使い切れ
なかったテレフォンカードを航空便で送ってくれた。
 良き人だった。楽しかった。
 それでも。
 もう、私は気安く外国人に声をかけないだろう。
 一緒に楽しむつもりが、いいように使われる。
 それはある程度予測しているから、かまわない。
 しかし、宗教のせいの食の禁忌まで付いてくると、精神的に疲れが増
す。
 やれトマトが嫌いだ、漬けものが嫌いだと自己主張する人達にも、
「いちいち言わずに、人知れず食べなきゃいいじゃん」
 と苛つかされるが、禁忌(きんき)の食材が皿の中に入っているだけ
でも駄目となったら、
「同じ嗜好の人達と食べたらいかが」
 匙(さじ)を投げたくなる。
 本当は、食を共にしてこそ親密になれるんだけど。
 あ。それが企み・・・?
 ほかの宗教と馴染み合うのではなく、排他するために「食の禁忌」を
使う。
 アメリカで働く友人にこの話をしたら、
「マグロもサーモンも魚だから、その娘は単にわがままなんじゃないの」
 うわっ。ほんまやん。