足りなかったのは、水

 前回パリに行く時、乗り継ぎの成田空港でフランス製の口紅を買った。
 搭乗口近くの免税店コーナーの隅の一角が、目指す店。小さすぎる。
 でも、客がいなくて却っていいかも。
 すぐに張り付いてくる店員も、この時ばかりは嫌ではない。小一時間
ほどしか時間はないのだ。
 案の定、店員の勧めを聞いて、試し塗りし、候補を二つに絞るまでで
も三十分以上はかかった。
 私は突然しゃがみ込んだ。
 午前十一時前。
 悪い予感は当たったみたい。
 それでも、朝食を抜いただけで眩暈に襲われる、とは予想外だった。
 機内食が出るまで待てない場合もあるかと、機内持ち込みスーツケー
スの外ポケットにおかきを入れてある。
 もう立ち上がることはできたが、しゃがんだまま、おかきを一つ頬張
る。
 だって、ここでは、おかきをむさぼる客がいる光景は異様だろう。
 醤油の香ばしい匂いも不似合いだろうが、こればかりは如何ともしが
たい。
 と、
「外で座って休まれたらどうですか」
 と店員。
 え、私はそのまま戻ってこないかも。それでもいいの・・・。
 今考えれば、私に売れるより、このあり得ない匂いで店の品位を落と
されることを阻止する方が死活問題だったのだろう。
 なんにせよ、私は、おかき一枚で足りる状況ではなかったので、一旦
外に出ることを承諾。
 そんな私に、店員は、飲み物を持っているかと聞くと、
「私のをどうぞ」
 商品ケースの一番下の引き出しを開け、自分用に買ってあったペット
ボトルをくれる。
 外にはいくらでも自動販売機がある。
 私は、絶対にこの人から買ってあげるのだ、と外のソファーで急ぎ腹
を満たし、喉を潤し、店に戻って口紅とグロスを購入。ばたばたと搭乗
口に向かった。
 この時の強烈な記憶は学びとなった。私は、たとえ一食でも抜いたら
駄目なんだ。
 それは、食事の量を減らすことへの恐怖にも結びついたような気がす
る。
 ところが、先日、医者が書いた『やせる生活』を読んだら、患者から
よく聞かれる質問と回答の章に、
「減量を始めたらめまいがします。私はダイエットに向いてないんじゃ
ないでしょうか?」
 というのが載っているではないか。
 この手の本を三十五冊読んでいるが、眩暈に言及した切り口は初めて。
 著者が違えば、書く内容が微妙に異なる。その微妙な違いが、自分に
とって大切になる場合もあるのだとわかった。
 ちなみに、減量による眩暈は怖れるに足りず。
「めまいの原因は、水分不足です」
 ですと。
 あ〜あ。私だけの特別な体験だと思っていたのに。