思い出の信憑性

 新年の始まりを、またまた訂正から始めることになった。
 私が幼稚園の頃、「エレベーター」か「エベレーター」で迷った時期
がある、と書いたのは真っ赤な嘘。
 自分でもびっくりだ。
 書いている時はそれが正しい私の過去だと信じていたのに、書き終わ
ってから、なんか心にひっかかり、考えているうちに、私が迷ったのは、
この物体は「エレベーター」か「エスカレーター」か、という語彙の選
択だったと思い出したのだ。
 記憶の引き出しから誠実に取り出したつもりが間違っていたのだから、
失意は深い。
 ただ、どうせ個人的な思い出なのだから、このまま放置しても、誰か
らも怪しまれない。
 それを敢えて正確を期そうとするのは、幼稚園の年齢であっても、私
が「エベレーター」などという覚え間違いをしたわけがない、と言うた
めではない。
 その手の間違いなら、もっとあとに経験している。
 大学生の時、「どぶくろ」と言って、教授に、
「それ、何ですか。僕は知りません」
 と言われた私。
 真顔で問われて、あ、と気づき、
どぶろくです」
 と言い直したが、なんで、そんな冷たい聞き方で、私の愚かしさを暴
きたてるかなあ。
 羞恥の思いと共に、恨みに似た気分を覚え、ために、この一件は私の
心に深く刻まれた。
 ところが、「ポップコーン」を「コップコーン」と覚え間違っていた
友の息子に対し、私は、まずは「コップコーン」なるものが存在するの
かも、と不安になり、その小学生の言い分に耳を傾けた。そして、この
時初めて、もしかしたらあの教授も、自分が知っていることがこの世の
すべてではないという謙虚さから、あんな質問をしたのかも、と思えて
きたのであった。
 なんにせよ、取り扱いがむずかしきは思い出である。
 その人の過去はその人自身の自己申告になるので、わざと美化して自
慢されても、反対に、わざと自分の不幸を強調されても、聞かされる方
はただ黙って頷くしかないのだが、もし頑張って客観的に中立の立場で
過去を語ろうとされた場合でも、それがその人の記憶に残ったというこ
とは、その出来事に強く感情が揺さぶられたからで、すでに良くも悪く
も偏向した内容になっているはずだし、そこにその後の時の流れが加わ
ると、ますますその人独自のお伽噺となっている可能性はある。
 要は、一番信用できるのは、今、目の前を過ぎゆくこの瞬間のみって
ことなんだなあ。それと、まだ起こっていない未来。
 そんなことを思わされる年の初めになった。