悪筆

 字が汚いのは「脳内文字」が崩れているせい、という説に頷けないの
は、この説によると、字を最初に習う時、手本にした文字が「脳内文字」
として記憶され、字を書く時はこの脳内文字を再現することになるが、
手本を見る機会が減り、一方、字を書く量が増え、あるいは速く書こう
として字が雑になると、それが新たな「脳内文字」になってしまうせい
だ、というのだが、私達は、日々、印刷文字に接している。これ以上の
お手本があるだろうか。
 手書き文字とは違う?
 けど、「ペン字」教室のチラシなどに載っている文字は、印刷文字の
一種と言っていいぐらい非個性的。
 それに、ひらがなの書き順ですでに躓く小学生を見ていると、その後
に習う漢字も、最終的にその形になっていたらいいんでしょう、とばか
りにでたらめに書いて、結果、判読しづらい漢字を書くようになる。
「脳内文字」説に従うなら、最初に習った時の「脳内文字」自体がすで
に理想とかけ離れている。こういう場合はどう説明されるのだろう。
 だいたい、「綺麗な字」って何。
 小学五年生の時、職員室で男の先生が字を書くのを見て、私は衝撃を
受けた。その字自体は忘れたが、もし「田」という字だったとすると、
先生は、下から「Q」を書くように丸を書いて、その中に十字を書いた
のだ。
 角張った漢字をカクカクした字で書かなくてもいいのか!
 たぶん、その後も、漢字の試験の時は点が取れる字を書いたと思うが、
それ以外の時は、私は「口」は「○」に置き換える書き方をするように
なった。さすがに、「ここぞ」という時は四角張った字を頑張るが、そ
うして書き上がった文字の一群は、なんかよそよそしい。
 文字を四角く書きたくないという強烈なる我が心の意志を感じる。
 もし四角く書くよう強要されたら、書けるけど、私は、私の心を押し
殺さねばならないだろう。
 だから、武田双雲の、書道教室に来る人達への、
「どんな悪筆であっても、自分の字を嫌わないでほしい」
 というメッセージは光だった。
 時代の進歩も、光。
 今や、「ここぞ」という時が来ても、パソコン入力文字の方がむしろ
求められる時代になったからだ。
 しかし、ああ、年賀状・・・。
 これだけは、ひと言添える言葉を手書きするしかない。
 それが嫌さに年賀状をやめてもいいけど、今のところ、その気はない。
 年賀状だけになった薄い付き合いも、面識のない子供の写真入り年賀
状が送られてくるのも、いいもんだなあ、と思うからだ。