信じる前に

 東京から来た友達のフランス人を京都の二条城に案内し、廊下がきゅっ
きゅっと鳴ると、不審な侵入者はこの音でわかるのだ、と私は得意げに説
明した。
 かの有名な「うぐいす張り」廊下である。
 大学時代、バスガイドのアルバイトでここを訪れた際は定番で語ってい
た。
 ところが、床板を固定する「目かすがい」という金具の釘穴が緩んで床
がきしむようになった、つまり、単なる経年劣化だった可能性が濃厚にな
ったそうな。
 侵入者警報装置だなんて、一体誰がそんなデマを言いふらしたんだ。
 そういう意図で作られたのだと閃いたか、そうだったらいいなと思った
人がそう述べたら、人口に膾炙することになったんだろうな。
 目の前の事実をどう解釈するか。
 その時に、私達は、根拠はないが淡い願望を混ぜて語る場合がある、と
いうことを教えてくれる一例である。
 もちろん、直感は信ずるべからず、ということではない。
 人の気持ちは見えない。
 しかし、目の前の人が、陽気な口調とは裏腹に悲しそうな雰囲気であっ
たら、言葉より表情に真実を見るであろう。だが、あとになって、その人
の言葉の方がその人の真実だったとわかって、ずっこける場合も無きにし
もあらず。
 人の気持ち、というごくありふれたことですらこうなのだ。
 検証できないことを真実だと断定する時、大多数の人がそうだと感じる
から正しい、とする論理に危うさを見るまなざしは忘れないようにしたい
ものである。
 私は、スピリチュアルはインターネットと本を介してその世界と接点を
持っただけだが、そこで説かれていることを信じたいと思い、でも、いろ
いろ疑問が沸いた。
 願えば叶うのであれば、受験に合格したい全員が合格できないというこ
の世の当たり前はどう説明する。
 疑うからいけない、というのであれば、大金持ちの御曹司は生まれなが
らに裕福を当然として生きているという点で、これほど純粋培養の人間も
いないだろうに、そういう人でも経済的に没落することがあるのは、なぜ。
 高い波動は幸せに生きるために良いらしいが、波動の高い低いはどうや
って測定できるのか。自己申告であるなら、類は友を呼ぶ、という昔なが
らの格言で間に合わないか・・・。
 スピリチュアルに期待したいが、こういう素朴な疑問については誰も説
明してくれない。
 疑うな、ただ信じよ、というのであれば、宗教の一種になってしまう。
 でも、それはできない。
 自分の脳の限界をわかっていても、それでも。
 いや、だからこそ。