言葉は善なりや

 前回、レストランでカウンター越しに店員と雑談した際、
「その店は老舗と言われているけど、実は市場の人間に仕込みをさせている
という話なんですよ」
 と言われたと書いたが、この書き方だと誤解される可能性があると気づい
た。
 この店員は、仕入れに行った市場で直接聞いたのだ。
 言葉は難しい。
 中国の過去の時代やオスマン帝国時代のドラマを見ると、いかに主人公が
権力を手にしていくかという話の中で次々敵が現われるが、敵陣にスパイを
送り込むのは当たり前だし、自陣にスパイが潜んでいるのも当たり前という
前提なのだとわかる。
 味方に裏切られても落ち込まない。
 性善説ではないのだ。
 こういうのを見て、日本のドラマを見ると、精神的に幼いというか手緩い
ように思えてきて、世界の中で私達はちゃんとしたたかに生き抜けるのかと
不安になってくる。
 もちろん、こういう原始的な人間の野蛮さ、本能を暴走させ、相も変わら
ず権力争い、領土争い、家系存続に明け暮れるのでは人の世に進歩はないと
わかってきたけれど、進歩が遅々としているとしたら、原因は言葉にあるか
もしれないと思えてきた。
 太古の昔から、時代が変わり、場所が変わり、金持ちか否かの違いはあれ
ども、人間関係のいざこざが絶えないのは、言葉のせい。
 言葉のおかげで至福を感じられるが、地獄に突き落とされることもある。
 鳥や動物達の発する音と違い、人間の言葉は心と裏腹のことを平気で言え
るほどに巧妙だから。
 せめて、自分は、頭(こうべ)を上げ、人の目を真っ直ぐ見られる生き方
をしよう。
 そんな小さい決意で生きることぐらいしかできないのではないか。
 先ほどまで将棋の叡王戦五番勝負の第三局を見ていた。というより聞いて
いた。
 でも、解説を聞いていると書けないので、音は切った。
 今、イギリスのチャールズ国王戴冠式の模様がBBCから生放送の真っ最
中。
 これは音を消さない。
 映像は流されるが、放送局のアナウンサーの無駄な解説がなく、短い儀式
で発せられる言葉は耳にうるさくないし、讃美歌やオルガンの伴奏曲はバッ
クミュージックになり、心地好い。 
 先日、NHKで『ノーナレ』という番組があり、
「おおっ」
 と身を乗り出した。
 確かにナレーションはなかった。が、音楽はある。
 音楽もなければいいのに。
 映像の中の自然の音だけ拾って聞かせてくれたらいいのに。
 そう望むのは無理難題か。
 あるいは時期尚早か。