らしさ

 二十三日に夏の甲子園野球で慶応が仙台育英に勝ち、優勝旗を手にした。
 片や勝ったら百七年ぶり、片や二連覇だと世間が盛り上がると、試合を見
たくなったが、見られたのは帰宅後、試合のハイライト。
 慶応は丸刈りを強要しないチームということなので、慶応が勝ったらいい
なとは思っていた。
 頂点に立ったら、坊主頭と強さは関係ないと証明できる。止まっていた時
計の針を現代に合わせられる。
 丸刈りは、高校野球が始まった第一次世界大戦中は誰もが丸刈りだったか
らで、球児の特別ではなかった。しかし、そういう時代が終わっても強豪校
は坊主頭を続け、ために坊主頭と強さが結びついて考えられるようになり、
伝統と言い表わされるようになった。
 私は、キリスト教の人達が胸の前で十字を切る時、上から下に切ったあと、
横に切るのは左から右か、右から左かに関して、人がするのを観察せねばな
らなかった。
 私自身にそうする必要が来ることはないかもしれなくても、それが定型な
ら、万一の時のために知っておきたかったのだ。
 しかし、これとて、右から左が作法に定まっていた可能性もある。
 ただ、ひとたび、これ、と定まったら、それ以外は異端になる。
 高校球児の丸刈りもそういうことなのだろう。
 でも、丸刈りを高校生らしさと言うのは、伝統と言うのとは違う。
「らしさ」と言わねば球児達を納得させられなくなった時に、この言葉が使
われるようになったのだろう。
「らしさ」という言葉で、自分達が見たい理想を押しつけてくる大人。
 じゃあ、その大人は「大人らしさ」をどう体現しているのか、と思ってい
たら、慶応を応援した人達の度を超した応援の仕方が試合後も議論を巻き起
こし、考える機会を与えてくれた。
 何がいけないのか、と言う大人もいる。
 けれども、フェアプレーだのどうのこうのと理想を高校球児に押しつける
のなら、見に来る大人も観客たる理想を体現して然るべきではないか。
 自分達の振る舞いのせいで相手チームが力を発揮できないようになったと
したら、高校野球という場において大人はフェアな振る舞いだったか、とい
うことだ。
 しかし、ひとの事より自分のことだ。
 私自身が「らしさ」を求められた。
 職場で、髪とか、もうちょっとなんとかしてくれないかと言われたのだ。
 髪をくくってまとめるとか。
 着いた直後、後ろ手に髪をまとめて巻き上げ、髪留めで留めることがあ
るが、それがいいと言われた。
 私は困惑。