「後期高齢者」は差別用語でないとしても

 英語の家庭教師先の中学生が、childの和訳を「子供」と書いてはい
けないと学校の先生に言われたので「子ども」と書いた、と私に説明す
る。
 お供、供え物を意味する「供」を遣うと、こどもの人権を差別するこ
とになる、というこじつけの理由はそれとなく耳にしていたけれど、ま
さか、その強制事実に出くわすことになろうとは。
 心の中で舌打ちするが、「でも、言われなかったら、そんな風には考
えもしなかったから、びっくりした」とその子がまっとうなる感性を披
露してくれたので、ホッとする。
「そうよね。だったら、良い女で娘、とか、嫁や姑とか、女の人に失礼
な漢字もどうかしてほしいわよね」
 新たな解釈で言葉をいじくろうとする人達は、大局的に物事を捉えら
れないため、枝葉末節にこだわることで、そういうことに気がつく自分
は偉い、と悦に入りたい人達ではないか、と私は見ている。
 今、マスコミがこぞって「おおじしん」と連呼し、正当なる「だいじ
しん」を駆逐しにかかっているが、漢語、和語の理屈はわからなくても、
地震」に「だい」が付くと直感できてこそ、生粋の日本人。それをね
じ曲げる言い換えは、野放しにしておくと、いずれ、日本人の語感を混
沌に陥れかねないから、それこそ大局的検地から捨て置けないと思うの
だが、「子供」表記に目の色を変える人達は、これはどうでもいいよう
で、要は、「子供」という言葉をいじくることで、自分達はこんなに子
供を大切に考えている、と意思表明することが目的だったのだろう。
「障害物競走」を「バラエティ競走」と言い換えるべきだと主張する。
賛成しないと、差別に鈍感な人間に思われそうで、普通の人は、波風立
てまいと、賛成してしまいそうだ。
 そんな中、「聾学校」から「聴覚特別支援学校」への改名は、「聾」
の言葉を差別と受け止めず、むしろ誇りに思ってきた自分達に不本意
あると、聾の人達から反撥が出たことを、私は喜ぶ。
 その言葉を差別だと言う人は、自分が、その言葉で、その対象者を差
別していると告白しているようなもの。
 変えるべきは、言葉でなく、人を差別してしまう自分の不遜さであろ
う。
 とまあ、言葉の安易な言い換えには反対の私だが、「後期高齢者」の
造語には、ぶったまげた。
 高齢者の後期とは、「卒業イコール死」となる人。
 人はみな死ぬものだが、中でも「もう、いつ死んでもいい一群」。
 そう大胆に言い放つなんて、いくらなんでも、えげつなくないですか。