Zoom写りの良い服

 時は進む。
 後戻りできない。
 私達はそんなふうにできている。
 早く終焉してほしいと希求するようなことが起こった時、そう望むのは
当たり前だが、終焉後、終焉以前と同じ状況に戻れると信じるのは浅はか
だ。
 元に戻ったように見えても、そう見えるだけ。
 たとえば、きのうと寸分違わぬ今日であったと感じても、肉体は一日分
しっかり老い、変化は起きた。
 変化せずして時は経たない。
 その変化を認識できるか。認識した場合は、心が弾むか落ち込むか。そ
ういうことだ。
 北九州市と東京都で再び感染者が増え、二十人を超えたとか。新型コロ
ナウイルス後の生活が始まったと言うには早すぎるようである。
 が、近くのデパートが全館再開されたので、行った。
 人工的な建造物や人がひしめき合う都会より大自然が好きな私なのに。
矛盾だなあ。
 馴染みのブランドショップを覗く。
 客はいない。
 もっとも、フロア全体が閑散としている。
 猫のように静かに歩く私の気配を感じた店長が、確認していた在庫表を
閉じ、近づいてきた。
 店長は、自分の手が空いていても、私の顔を見ると、一人の店員がまる
で私の専属みたいに、
「今、昼休みで、もうすぐ戻ってきます」
 などと言うのが常だった。
 その店員は私がその店で初めて買った時に担当してくれ、若干の馴れ馴
れしさはあるが、私に似合わないと思ったらちゃんと意見を述べてくれる
ので、彼女に接客されるのは嫌ではない。それを店長は機敏に見抜いてい
たのかもしれない。
 が、この日、店長は、その店員は実は派遣で四月末で契約終了になった、
と語った。
 四月の半ばにデパートが再開するという話があったが、立ち消えになり、
店長もその人と会えぬまま別れになったとか。
 私は店長とひとしきりお喋りすると、店を出た。
 家での仕事になり、Zoomの時は、画面上の私の、それも画面に映る上半
身だけ綺麗に見えればいいと考えると、外出するのであれば着心地や生地
感の面から却下し、箪笥の肥やしになっていた服達が、急浮上。画面に映
る時の色やシルエットを理由に、突然、日の目を見るようになっていた。
 長年見捨てられていたが、予期せず大輪の打ち上げ花火になってくれた
と思うと、最後の花道。これで心置きなく手放せそうだ。
 新型コロナウイルスのおかげの小さき変化。
 あ、そうそう。
 十万円の特別定額給付金の申込書は先週の土曜日、マスクはきのう届い
た。
 明日で五月が終わる。

動画に時間を奪われる

 寝るのが遅くて、朝寝坊。
 当然の理であるが、今日は八時半、きのうは九時半に起きた。
 遅い。
 そして、この二日間とも、起きる前まで夢を見ていた。
 テレビなどで顔を知っているだけの人達が登場していたことは覚えてい
る。
 あと、夢を見ている最中、頭の前方が熱を持ったような感覚があった。
頭がフル回転するからだろうか。
 目覚めてからも、その余韻は続く。
 睡眠時間は足りているので心配していないが、たまに、きのうみたいに
普段以上に長く寝てしまうことがある。
 なんでだ。
 私は家ではほぼパソコンと向き合っているが、見る分野は偏っている。
 そんな私が、外出自粛で、ついに新分野にデビュー。
 まずは漫画。
『ワンピース』が期間限定で無料で読めると知り、かくも人気の理由を知
るべく、アクセス。六十話までが無料と思っていたが、さらに読め、二日
目に百話に到達した時点で、あとは毎回いろいろな冒険談が続くんだなと
推察できたので、終了。
 次は『鬼滅の刃』。
 ほかにも、ブログで、無料で一話か二話読めると紹介されていた漫画を、
何冊か。
 面白い。
 が、次が読みたければ有料、という所まで来ると、私の好奇心は見事に
スウッと消えてくれるのだった。
 ほかにも娯楽はある、とわかっているからだろう。
 実際、youtubeに移り、カジサックの芸人へのインタビューに笑わされ、
ヒカルを知ると、彼の動画戦略の冴えや幸せの考え方などに感銘を受けた。
 しかし、動画は私の時間を奪う。
 人と会ったり電話するのは相手の時間を奪うことだから、それ相応の価
値であるべし、という考え方がある。
 ヒカルが、挨拶目的で出向いたはずの会社で商談を持ちかけ、話を成立
させる動画は、彼の経営手腕を目の当たりにさせてくれるが、そういう動
画も、ただ口を開けて見るだけのこちら側の人間は、その長さをまるごと
受け入れるしかない。
 見る側は、ただもう時間を奪われるだけ、という構造。
 その長さの分だけ楽しませてもらっているとは言え、見る本数が増える
と、時間が飛ぶように過ぎ去り、恐ろしいほど。
 音声配信と、それを文字にしたブログの配信を見た時、私は文章派だと
自覚した。
 自分の速度で読める。読む前にさらっと目を通し、読むか否かを決める
こともできる。
 テレビはつまらないので、youtube
 でも、私の時間を侵食され過ぎないよう、気をつけよう。
 でないと、脳が疲れて、睡眠時間が長くなる。

もう「気の緩み」ですと

 中学時代、男女二人がペアで日直に当たることになっていた。
 三年生の時のこと。
 一日の終わりに、その日の日直の仕事を完遂したかどうか、クラス全員
に裁かれるのだが、名字の近さからほとんどその子と組むことになってい
た私は、毎回、力が抜けた。
 駄目だったと判断されたら、翌日もう一回という規則になっている。
 その子のせいで、私達は、毎回、やり直しが二日、三日と続いた。
 新型コロナで「人と人の接触機会を八割減」というような曖昧な判断し
か示せなかった国と比べたら、「黒板拭き」のように明快な項目ばかりだ
が、それでも、ちゃんと拭いたか否かの判断は一人一人の匙加減でどちら
にも転ぶ危うさがあり、そこに私は焦れ、失望したのだったと思う。
 でも、私はその子を責めなかった。
 だからなのか。
 卒業文集に作文と共に載せる自分自身の似顔絵を、その子は私に描いて
くれ、とのんきに頼んできた。
 私が引き受けたのは、それはそれ、これはこれ、と思ったからと、誰が
描いてもわからないと思ったからだ。
 が、できあがった卒業文集を見て、私は、鉛筆書きという同じ条件下で
も、描き手の個性が現われると学ぶことになる。私とその子の似顔絵のみ、
同じ線のタッチであった。
 なんにせよ、この日直のことがあったからかもしれない。
 上がぼやけた指示しか出さず、下に、
「どうすればいいかは自分で考えろ」
 と命ずる構図を、私は嫌悪するようになった。
 こういう態度を取る上は、下が答えを出すと、俺の心を真剣に読めと言
わんばかりに、
「それでいいと思っているのか」
 などと言って、下をいたぶり、無能扱いし、サディスティックな趣味を
満足させる気がするが、下が複数人いたら、事はさらに面倒になる。
 早急に上に忖度した答えを出し、自分だけはこの状況から抜け出したい
と願うのは誰しも同じ。ゆえに、下の者同士が牽制し合うし、足を引っ張
り合うこともにもなる。
 新型コロナ対策における政府の態度のせいで、案の定、似たことが起こ
ったなあと思う。
 お上(かみ)の判断を信じるしかなかった昔とは違うのになあ。
 国のトップの人達ほどの頭はないとしても、客観的な数字に基づき判断
してこそ、という教育を受けている私達。
 そんなふうに育った下の者達を煙に巻きたいなら、都合の良いデータや
数字を論拠にあげるが、見透かされないよう心を尽くしてこそ現代流だろ
うに。
 旧態依然に留まる国民の知への対応。
 あ~あ。

ちっちゃいマスク

 新型コロナウイルス対策にマスクマスクと言われ出した頃、私は一枚も
持っていなかった。
 が、四月の初めに一枚入手。
 アレルギーで通院している病院に行った時のことだ。
 その日の朝一番の予約を取っていた私は、担当医から、
「どうですか、変わりないですか」
「薬はどうします」
 と聞かれ、変わりはない、薬はいらないと答えた。
 薬は体調が不安な時だけ飲むので、次回の診察日までに十分あると私が
判断したら、こういう返答になる。主導権は私に委ねられるのだ。
 こうして、三分どころか一分診療で終わりかけたが、私はその後も三十
分間ほど診察室にいた。
 立ち上がろうとしつつ、志村けんの死亡に関する医学的見解を問うたら、
その話題を歓迎してくれたようで、二月に済生会有田病院で医師を含む院
内感染が発生したが見事に三週間で封じ込めた和歌山モデルの話、さらに
はマスクの話へと会話が発展。
 すると、医者は、私のようなアレルギー患者は花粉の季節にはマスクを
した方がいいんだけどと言ったあと、マスクの箱からひょいと一枚取って、
私にくれた。
 大切な一枚。
 私は毎回、マスクの内側にガーゼのハンカチを折り畳んで入れ、三週間
ほど使い続けた。
 でも、そろそろ、マスクを買いたい。
 ついに家電量販店で見つかった。
 そこは日常品も扱っているので、もしや、と店員に聞いたら、
「あっ、一つ残っていたはずです」
 素早く通路のワゴンに走り寄ってくれたのは、僅差でほかの客の手に渡
らないようにしてくれたのだろう。
 五十枚入り、三千八百二十八円。
 あとで調べたら、やはり、新型コロナ前にはあり得なかった値段だとわ
かったが、供給の安定が目に見えるまでは高値づかみも致し方ない。
 フランスは来週から外出禁止が解除になるが、公共の場でのマスクは必
須。
 友人が布でマスクを手作りしていると写真を送ってくれた。初めに参考
にした型紙だと小さくて、AFNORの型紙を入手したらいいのができるよう
になった、という。 
 フランスの規格協会、AFNORの型紙で作ったマスクは、なるほど顎まで
しっかりカバー。 
 日本の平成二十年の新型インフルエンザ専門会議の資料には、マスクで
「鼻、口、顎を覆う」
 と図入りで説明されていて、医学的に同じ考え方だ。
 基準が変わったのか。
 だって、安倍首相がしているのは、ちっちゃくて、完全に顎が出るマス
ク。
 いつかは届くらしい政府のマスクも、それなのかなあ。

目眩の引き金

 アルコールが体質に合わないのに赤ワインを買った私は、今週は、安売
りのシードルを見つけて、買った。
 一本飲んで、美味しかったので、また買って、計二本。
 クレープはそもそもは蕎麦粉の生地に卵、ハム、チーズなどの具材をの
せて焼く料理で、一緒に飲んで一番合うのがリンゴ酒、シードル。
 シードルもクレープも、フランス、ブルターニュ地方の発祥である。
 私はシュワシュワッと炭酸みたいな発泡性のシードルしか知らないが、
買ったのもそうで、美味しかった。
 売っていたら、もう一本買いたい。
 アルコール度数は二パーセント。ビールより軽い。同じようにシュワシ
ュワするのなら、私はシードルが好き、とわかった。
 そう話したら、ビール偏向愛の叔母と話が噛み合わず、はたと気がつい
た。
 私はビールは好きじゃない。
 乾杯の音頭の時などに、コップの底に一センチほど注いでもらうビール
に口だけ付けていた私がそうであった理由は、飲める体質に生まれたかっ
たと嘆きたくなったことがないからだ。
 味の違いがわからない。
 なーんだ、そういうことだったのか。
 そうとわかる前と、わかった今からあとで私の行動が変わるかというと、
何も変わらないだろう。傍目にはまったく同じ。でも、私の中では、私自
身がより深く理解できたという意識がある。
 それは、なんか、目眩がするような喜びだった。
 あ・・・。
 筆が止まった。
「喉元過ぎれば」
 とか、
「目と鼻の先」
 など、よくこんなうまい表現を思い付いたなあと思わされることは多々
あれど、目眩を使ったこの表現は、書いてから、ちょっと、どうなんだろ
う、と思わされた。
 十年以上前に、ベッドで身体を起こしたら、壁と天井が接し合う部屋の
隅が、ぐい~ん、と動いたことがある。吐き気もする。
 横になり、目を閉じても、暗闇の外に感じる世界はぐいんと揺れる。
 良性発作性頭位めまい症
 先週、久しぶりにそれに襲われた。
 今回は、物が、ぐい~ん、と動くことはない。
 耳鼻科で診てもらい、ほどなく回復したが、なぜ私は目眩になった。
 ストレス、と直感した。
 本当かなあ。
 調べに調べて、やっぱりストレス、と納得できた。
 パソコン操作やテレビを見るなど同じ動作を続けたり、運動不足が続く
と、なりやすいとか。
 パソコンの前にへばりつくことが多いのに、Zoomでの仕事も加わり、
目がしんどい。
 外は新緑。
 連休明けに外出自粛が延びたら、私は壊れる。

コロナ・ストレス

 一日を長いと感じるか短いと感じるか。
 子供は、おやつ一つ取っても、
「うわぁ!」
 喜びを爆発させる。
 そういう事が数あるから、一日を長く感じるのだとか。
 確かに、やたらめったら感動するようなことはなくなった大人の私の一
日は、あっという間に過ぎる。
 が、遅寝遅起きも一因だという気はしている。
 夜、カーテンを閉めたあと、室内は蛍光灯の下、のっぺり同じ表情で、
時間の経過がわからなくなる。そうなって初めて集中力を要することに着
手できる日常になっている私は、朝六時やそれ以前に起きていた過去が信
じられない。
 遅い時は朝九時前まで寝ている。
 薬罐で湯を沸かして一日分のお茶を作り、鉄瓶で沸かした湯で紅茶とコ
ーヒーを入れ、朝食を食べ、洗濯など生活の事をしていたら、すぐに十二
時。
 これが朝六時の起床であったなら、三時間後はまだ九時。一日は始まっ
たばかりだと感じられよう。
 朝の開始が遅いせいで一日を短いと感じるのは、残念だ。
 しかも、夜は夜で、さあ、これから本腰を入れて、のはずが、そうでき
ない時がある。
 ワインを買った。
 このところ、私はバゲットでフランス風サンドイッチを作ることが増え
た。しっかりした歯応えに心が落ち着く。半分に切ったパンを背開きにし、
ハムやきゅうり、トマトなどを挟むだけだから、準備も後片付けも楽。
 チーズも好き。
 こんな私にはワインだろう。
 しかし、アルコールを受け付けない体質の私。
 果たして一杯目で、もうほろ酔い気分。
 三杯飲んだら、そのあと三時間ほどは酔いが抜けず、何かに集中するど
ころか、何もできない。
 酒は脳の機能を麻痺させると言うけれど、やっぱり暇潰しになるんだな
あ。
 することがなかったら飲めばいい。
 って、アルコール中毒者の発想ではないか。
 実際、翌日、日が高いうちから、
「飲んでもいいんじゃないの」
 と実行しそうになった。
 起床時間が三、四時間後ろにずれても人それぞれなら、夕食が三、四時
間前にずれても人それぞれのはず、ということだ。
 あ、思い出した。
 フランスの学校では、食堂に、教師が取っていいテーブルワインの小瓶
が用意されていた。
 ワインは水扱いなのか。
 でも、私はワインのボトルが空になったので、もう買わない。
 と言うか、私はなぜワインを買ったのだろう。
 自覚はないが、新型コロナウイルスのせいのストレスだったかも。
 たぶんそうだ。
 だって、次には私は目眩に襲われた。

有吉セクハラ・ジャポン

 四月も半ばだが、寒かったり雨が降ったり。それに新型コロナウイルス
もある。
 本屋に行く必要があり、歩き始めたら、身体が重い。
 朝晩計っているので、体重の増加は知っていたが、心底思った。
「やばっ」
 が、目の痒さはどうしたらいい。
 私は放っておいたら喘息になるアレルギーを漢方薬で抑えているが、目
漢方薬の管轄外だ。
 眼医者にもらった薬は一ヶ月を越えたので、もう使えない。再度眼医者
に行くのがためらわれるなら、目の痒さに耐えるしかない。
 この程度の不調はささやかなもの。
 それでも、気分は大きく左右されるようである。
 あ、だから食に走るのか、私。
 一昨日、なんとなくテレビをつけたら、初めて見る『有吉ジャポン』で、
服の上から乳首の位置を当てるという、それがどんな特技か意味不明の検
証が田中みな実の胸でなされようとする場面だった。
 続いて、乳首に紐付きの洗濯ばさみを付け、紐を引っ張りはずれた時の
田中の反応を見る。
 お気の毒にね。
 宴会などで、タガがはずれた上司にセクハラまがいのことを強要される
部下を想像させられた。
 たちが悪いのは、女が女にするという構図にしたこと。
 画面の中で沸き起こるは、野太い男達の笑い声のみ。
 田中みな実は、高い出演料と、一瞬の我慢を天秤にかけ、許容したのだ
ろう。
 私は次を待った。次は司会の有吉弘行の乳首だな。
 ところが、それはないから、つまらない。
 こういう企画が放映される国。
 そりゃあ、神戸市立東須磨小学校の教員セクハラ事件も起こるであろう。
 楽しい気分を求めてつけたテレビで、気分は、さらにささくれだった。
 が、翌日。
 いつもの花屋で、普段は切り花二本のセット売り税抜き三百円弱が同じ
価格で十本入り。二セットならさらにお得な五百円。
 花農家を応援するためで、売り切れ御免の限定セットだとか。
 二年前に見惚れて一本買い、もう一度買いたかった白い菊がある。
 それと白いグラジオラスを買ったが、計二十本もの花が入る花瓶はない。
 再度出かけるも、百貨店は閉まっているし、気に入った花瓶がそうすぐ
に見つかるわけはなく、スーパーでおしゃれな白いゴミ箱を買った。
 あ。水漏れしないのか・・・。
 しないから、日本で売られる製品への信頼がいや増す。
 剣山という、使うことがあるのかと思っていた物にも出番を作ってやれ
たし。
 夜六時からは『小さな村の物語 イタリア』の再放送。
 目は痒いが、幸せだ。

自粛は要請できない

 先日、久しぶりに近くの百貨店に立ち寄った。
 久しぶりだったのは、新型コロナウイルス感染を怖れて、外出を控えて
いたからだ。
 馴染みの店員が忙しそうに商品と格闘中。新作が大量に入ってきたよう
だ。
 明日から百貨店が閉店するので、その作業に追われていると聞き、
「えっ」
 でも、まあ、すみやかなる感染終息のためには、正しい決断である。
 ところが、かの地、東京では、理髪店、美容室は開けてよし、という方
針が出たそうな。
 髪の毛なんて伸び放題でもボサボサでも、
「このコロナのあいだはねえ」
 と互いに嘆き合えば済むこと。
 テレビに映る政治家達が身をやつしたいからではないか、と勘ぐりたく
なる。
 まあ、所詮、かの地の話だ。
 が、飲食店での酒類の提供は夜七時まで、というのも意味不明だった。
 夜八時の営業時間間際まで客に酒を出しても、バレないであろう。
 うまくやったもん勝ちじゃん。
 ただ、自覚症状のない新型コロナウイルス陽性の客が来て、店で集団感
染が発生したり、店主が入院することになったら困るだろう。
 店は開けるが、客が来てくれなければいい、と考えよ、ということなの
か。
 だとしたら、それに加担するよう自粛要請を求められている私達って、
どう考えればいいのだろう。
 私は考えた。
 自粛とは、自分の判断で自分の言動を律すること。
 それを他者から要請されるって、言葉としておかしくないか。
 自分はかからない、とか、日銭が優先、とかで、コロナを軽視する人は
一定数いるはずである。
 そういう人への自粛要請とは、君は今までどおりにしてねと頼むってこ
となのか。
 そうではなかろう。
 ここに、この言葉遣いのいやらしさがある。
 周りの空気を読み、自分をたわめてでも周りに同調せよ。
 今、大多数が感染予防に外出を控えることを美徳としている。
 その良い子達は、異端者の中から感染者が出たりしたら、すぐにも石持
て打つであろう。
 しかし、人それぞれ、を人の権利として尊重するのであれば、人それぞ
れ、ゆえに個々人の考えは無視して、国民の命を感染から守るというただ
一点のみから国民を導けばいい。
 良い子も異端者も従うであろう。村八分は起きない。
 それを「自粛」だなんて。
 一人一人の良心に訴えかける形を取って一人一人を悩ませるようなこと
は、もうやめたらどうだろう。
 そうでなくても他人軸で生きて苦しい日本人。
「自粛」という言葉は、もう捨てたい。

コロナ疲れ

 トイレットペーパーの買い占め騒動が一段落した頃、「コロナ疲れ」と
いう言葉を聞き、
「はあ」
 と思った。
 私はフランスのニュースでヨーロッパの事態の深刻さを見ているせいか、
今から疲れていて大丈夫なのか、と思ったのだ。
 春分の日の少し前、友が、東京に住む娘が同級生と遊びに来て泊まって
いくと言っている、と語った。
 私は再び、
「はあ」
 一緒に住んでいる高齢のお母さんに感染させるリスクは、どうする。
 が、
「娘は、いくら言っても聞かへんねん」
「それやったら、来ても、鍵を開けへんって言ったらいいやん」
 私は素っ気ない。
 要は、彼女は娘が来てくれるのが待ち遠しいのだろう。
 この友と娘が異端でないことは、その頃のテレビを見れば、わかった。
若者は普通に外を出歩いていた。
 自分には無関係という楽観は、人に移しても自分は死なないと思えるか
らか。ウイルス情報をよく知らないせいか。
 なんにせよ、それが日本の現実だったので、こうなんだ、とフランスの
友人達へのメールに書いた。
 フランスでマスクが二千枚盗まれたようだが、日本では六千枚、しかも
病院内で、ということも。
 すると、
「まさか日本人が!」
 と驚きの反応。
 私はげんなり。
 行儀が良い、礼儀正しい日本人。まだそう信じているの。
 けど、私もフランスに憧れていたからなあ。
 論理的なフランス語を編み出した人達は、思考も論理的で理知的だと想
像し、そういう社会の方が成熟していると思ったのだ。
 だから、フランスの友が日本に幻想を抱く気持ちはわかる。
 ここではないどこか。
 ここより素敵な国。
 悪いことではない。
 憧れはエネルギー。
 エネルギーに突き動かされてこそ、未来が開かれる。
 そして、住めば真実を発見できる。
 失望しても、違う幸せが見つかるだろうし。
 要は、みな人間。どこの国でも大差ない、ということだ。
 国籍も性別も年齢も関係なく、その人次第、なのだ。
 新型コロナウイルスの死亡者数がまだ日本の方が多かった頃、東京出張
に来て、これから帰るというフランス人が空港から電話をかけてきて、こ
れで高齢者が一掃されるというような誰かの意見を拝借して口にした。
「あなたの九十歳過ぎのおじいさんもそうなってほしいのね」
「いや、それは・・・」
 こういうフランス人もいるのだ。
 ところで、今、日本でも感染者が急増し始めたが、ずっと警戒し続けて
きたからか、私は、ここに来て「コロナ疲れ」っぽい。

コロナ。お気楽テレビ

 フランスの友人知人達からのメールは、コロナウイルスの話。
 来月出産する友は、夫が立ち会えなくなると嘆いていた。
 別の友は、癌で入院中の親を見舞いに行けない辛さに直面していたが、
親がホスピスに移されて、次なる苦悶は、ほどなく来るであろう葬儀の際、
参列者の数が厳しく制限されることだと言う。
 フランスのテレビは、連日、コロナウイルスの報道。
 日本も同じ。
 けど、なんか違う。
 フランスは、医療現場の映像や医者の言葉が多い。外出禁止令を破って
罰金を課されて悪態をつく人も映されるが、深刻さを伝えるのがニュース
の基本姿勢。
 対する日本は、なんかお気楽。
 なんか、ひとごと。
 志村けんが感染して重篤らしいと聞いて、沸き起こった行動は「頑張れ
エール」ですと。
 もしや芸能界にウイルスが蔓延しているのでは、と不安になるのが筋だ
ろうに。
 あくまで自分は無関係、という脳天気さ。
 そう、そこなのだ。私が感じる違和感は。
 海外のニュース番組は、司会者が一人。
 必要とあれば、解説する専門家が登場する。が、そういう時でも、司会
者との間隔はかなりあり、画面に入りきらないから、画面を二分割してそ
れぞれを大写しにする。
 日本は、情報番組であり、お固いニュース番組ではないということなの
か、金魚の糞みたいに出演者がごろごろ。司会者から話を振られて彼らが
述べるのは、井戸端会議のレベル。
 専門的な話を噛み砕いて報道するのが目的だとしても、お笑い、俳優、
そういう分野の人達がのさばっている意味がわからなかった。
 より多くの人を雇ってあげたい優しさなのか。
 人の数が多い方ほど民主主義的だと感じる国民性が背景にあるのか。
 しかし、コロナなのだ。
 彼らは、画面を通じて、濃厚接触者が人にウイルスを移すと視聴者に警
告。
 よって、今回ばかりは出演者が激減すると期待した。
 ところが、コロナ前と変わらず、肩が接する至近距離で並ぶ面々。
 NHKも、立って報道する番組ではアナウンサーは並んで立っている。
「な~んだ、普段どおりでいいんだ。マスクもいらないぐらいなんだ」
 というメッセージをせっせせっせと振りまいている。
 鈍感すぎるぜ、テレビ局。
 だが、ジャニー喜多川の死の翌日、出演者に、喪服を連想させる服を着
させる配慮ができたぐらいなのだ。
 映像が命のテレビゆえ、真のメッセージは映像。
 そこが変わった時、初めて、コロナの深刻さが視聴者に伝わる。

言葉に時制がある限り

 私は日本に生まれて日本語で育ってよかった。
 外国人として生まれていたら、日本語に憧れても、早々に挫折した気が
するのだ。
 だが、悲しいかな、美術館などで昔の巻物や書物を見ても、読めない。
 昔の人が書いた文字が読めない。同じ日本人なのに。
 ところが、明治時代まで日本人なら誰もが読めていたと知って、衝撃だ
った。崩し字を読む教育がなされていたからだとか。それを政府が教育課
程からはずした。自分達の根っこに繋がる方法を教えなくてよいと判断し
たのだ。絶句だ。
 で、今。
 縦書きが駆逐されかかっている。
 童話は、こそっと横書きが主流になった。海外出版でも見越しているの
かね。
 日本語は、縦読みと横読みで脳の使い方が違う気がする。
 私は、情緒的な文章は縦書きでないと頭に入ってこない。パソコン上で
読んで保存する時は、わざわざ縦書きに変換している。
 が、そんな私がこの文章は横書き。心中、忸怩たるものがある。
 標準からはずれて頑張ろうとすると、急に面倒なことが増えて、断念さ
せられやすい、ということだ。そして、不本意ながらも一つの流れに巻き
込まれる。
 英語の方が世界に発信できる、良い収入を得られる。そんな損得勘定か
ら、英語がもてはやされる現代。
 日本語は価値なしとして、日本人自身から見限られることになるのかな
あ。
 しかし、昔の崩し字を現代日本語の文字に変換する「翻刻」ができるソ
フトの精度が高まり、注目を集めているとか。
 待てば甘露の日和あり、である。
 日本語の横書きは、テレビで東大の女子学生がすごいことを言っていた。
彼女も縦書きの方が頭に入るので、横書きの本は九十度回転させて縦読み
しているというのだ。
 早速真似させてもらうことにした。
 では、英語は。
『時間は存在しない』で、ロヴェッリは今の言語は過去、現在、未来とい
う絶対的な区別に基づいて作られていて、あなたにとっては「あった」で、
私にとっては「ある」、となるような物理学的な時間の真理を言い表わす
ことができないと嘆いた。
 要は、今のすべての言語が適さないのだ。
 ならば、根底からまったく異なる言語が創り出されればいいのではない
か。
 そのために、ひとまず人間の言語を一つに集約し、その後、それを徹底
的に解体するという方法がもっとも合理的だろうから、その目的のために
一旦英語、となるのは受け入れられる気がする。
 私が死ぬ前に日本語が死滅することはないだろうけど。

「今ここ」ってどこ

「今ここ」と言われたら、初めて聞いてもピンとくるだろう。
「今ここを生きよ」と言われたら、もう確信が持てる。
 良いことを聞いたなあ、そうしよう、と思ったりするかも。
 アドラー心理学をわかりやすく解説して売れに売れた『嫌われる勇気』
も「今ここ」を語った。
 しかし、「今」って何、と突き詰めて考えると、困惑することになる。
 たとえば、腕を上げようとして、実際に腕が上がるのは、その何分の一
秒か前に脳がそう指令を出すのだとか。
 腕を上げると決めたら、腕が上がる。今考えたことが、たとえ何万分の
一秒後かであっても未来に実行されるのだ。
 思った時が「今ここ」なら、事はまだ起こっていない。
 そういう瞬間を積み重ねて生きよ、結果は思い煩うな、というのが「今
ここ」なのか。
 そうであるなら、なぜ、記憶がまばらになった認知症の人はかくも不安
げな表情になるのだろう。五分前の事も忘れてしまえるのは、まさに「今
ここ」精神の理想だろうに。
 もし、意図して、実行し、それを認識して初めて一連の行為が完結する、
と言うのなら、認識するためには、為したことを振り返る必要がある。つ
まり何万分の一秒かであっても、今より前のことに意識を向けなくてはな
らない。過去を気にする、ということだ。じゃあ、常に過去を見続けて生
きよ、というのが「今ここ」の真意なのか。
 要は、過去に影響されるな、未来を怖がって立ちすくむな、と言いたい
だけだろう。ただ、厳密に「今」を考えると、「今ここ」に過去も未来も
含まれることに気づいてしまう。
 そんな「今」って何。
 そういう疑問だ。
『時間は存在しない』の著者ロヴェッリによると、「宇宙の現在」が存在
しないと証明されて、百年以上になるそうな。
 なのに、時間は過去から未来に流れるという感覚を私達が手放せないの
は、私達の目が何百万の分子の踊りを正確に認識できない出来の悪さのせ
いらしい。
 地球が丸いことに反論がないのは、そういう映像を見せられ、納得でき
るから。
 ところが、時に関しては、子供でもわかるよう証明できないので、本当
は地球は丸いが、普段は水平線は一直線だと思って生きる、というように
事実と直感を共存させられず、時間の物理的事実は、孤立して、私達と無
縁であり続けているのだろう。
 ところで、時間に関する発見を語る際、妨害になるものとしてロヴェッ
リが指摘したものが私の心を射た。 
 私達の言語だ、というのだ。

「今」は存在しない

 人は、なぜ、と思うようにできていて、思うと探求したくなる。
 ただ、すべてにおいてそうしていたら、生活が成り立たない。
 今日は大空にかかる雄大な雲、かと思えば、ぽこぽことあちこちに浮か
ぶ雲。毎日見惚れても、そこから気象の世界に足を踏み入れるとは限らな
い。そういうことだ。
 だから、多くの知識欲を専門家の研究結果で満足させてもらう。分業制
である。
 カルロ・ロヴェッリというイタリアの理論物理学者が書いた『時間は存
在しない』を読んだ。
 題名どおり時間が切り口だが、覚醒体験をした人の中で、体験後は生き
づらくなると語って人気がない人が語ることに類似の内容が多くて、驚か
された。
 私達はどこから来て、どこに行く。
 この世界を作ったのは誰なのか。あるいは何なのか。その目的は。
 人は、生まれ変わりを当たり前のように口にする。でも、それが真実な
ら、増える一方のこの世の人口を見て、数が合わないと困惑してこそ普通
だろう。
 哲学者の池田晶子は、見えないからと言ってないわけではない、重要で
ある、けれども、物理学は見えるものしか相手にしない、そこで宇宙のわ
からないものを暗黒物質と名付けて仮説上の物質だと言ったりしてと書い
たが、それでも、理屈で考えて納得する手法を、魂というような話になっ
た時だけ手放すことはできない。理論的に考えるのは私達の在り方になっ
てしまっているから。
 いつかは理屈で納得させてほしい。そう思っていたら、ロヴェッリの本
を読み、いずれそうなると期待できる気がしてきた。
「時間には元来方向がなく、一直線でもない、連続として整列していない」
 と彼は言う。
「過去の痕跡が豊富だから【過去は定まっている】という感覚が生まれ、
未来にそういう痕跡がないので【未来は定まっていない】と感じ、自分達
はこの世界で自由に動ける、過去には働きかけられないが未来は選べると
いう印象を持つ」
「私達は実在するのではなく、互いに結び合った出来事によって構成され
ている」
「私達は物語なのだ」
 私達の真実にかなり切迫してきた感じはしないか。
 実際、彼は、
「物理学は、時間構造がいかに私達の直感と異なるかを示す。しかし、時
間を研究するうちに、自分自身を巡る事柄を発見することになった」
 とも述べている。
 完璧に解き明かされたら人類が幸せになれるかどうかはわからない。
 それでも知りたい思いは止まらない。
 早く、彼の研究のその先を知りたい。

惚れさせて、男達

 性的犯罪を犯した男達が、
「好みのタイプだった」
 とその女性を狙った理由を話すのをよく聞くので、好みはすごい力を持
つと学ばされる。まあ、中身より先に外見に惹かれるのは人の常。
 でも私は、外見しか見ていない時でも、立ち居振る舞いの好ましさもは
ずすことはできない。
 スマホは、公共の場にあって、自分だけの空間に閉じ籠もるような錯覚
をもたらすのか、本人の地が出る。
 一心不乱にスマホに見入り、スマホに触れ、その手で耳をいじる、鼻を
いじる、唇をいじる。
 この「唇を触る」男はかなり多い。
 おかあさんのおっぱいが恋しいのかい、とからかいたくなるが、中学生
からよい年をした大人まで年齢を問わず、ご自身の唇の感覚にご執心の模
様。
 人に見られていないと思うとそういう癖が出るんだと思っていたら、テ
レビで、司会のフットボールアワーの後藤が、出演者が話すのを立って聞
くあいだ、唇を触りまくっていた。
 そういう映像は放送しない、あるいはスタッフが注意するとかないんだ。
意地悪なのか。余裕がないのか。
 以前、ともさかりえがテレビで得意料理を披露した時は、料理の途中に
何度も長い髪を素手でかき上げていた。そうやって作られたものを食べさ
せるんだと思うと、見続けられなかった。
 一方、雅子様が、婚約会見の時だったか、耳の下ぐらいまでの長さの髪
の毛が頬にかかるのを、耳にかけては話し、また耳にかけて話す・・・を
続けたのは、その仕草で幾ばくかでも緊張をほぐせただろうと好意的に見
ることができたが、その映像は永遠にお蔵入りになったはず。 
 注意してくれるのは貴重な人。
 食べる時、テーブルに肘をつくのはだらしがない。歳を取って筋力が衰
えてきたせいもあるだろう。でも、激しい踊りは天下一品、なのに食べる
時そうなる芸能人がいる。
 ところが、長嶋一茂石原良純の所作は普通で、つまり美しかった。
 要は育ちなのか。
 でも、意識すれば、自分で直せる。
 それにしても、顔を触るのは男が圧倒的に多いのは、なぜ。
 女性は化粧しているから、よっぽどでないと触らないのかも。
 じゃあ、男も化粧して。
 しかし、新型コロナウィルス予防でマスクをする人が増えた。
 マスクでもいい。
 ところが、電車の中で、スマホを見ながら自分の髪を前から後ろから触
りまくる男が出現。薬指には結婚指輪。妻の顔が見たい。
 スマホを触った手で目や鼻を触ると一番感染しやすいんだよ。気をつけ
な。

英語ができない理由

私は日本語を愛している。その前提に立って英語の話をする。
「I am as tall as Tom.」は、
「私はトムと同じぐらい背が高い」と訳す。
 この英語を否定文にすると、
「I am not as tall as Tom.」
 notを入れるだけ。
 ところが日本語は
「私はトムほど背が高くない」
 と大きく様変わりする。
 onlyは「たった」という意味。
 そう習ったばかりの学生が、
「I have only two books.」
 の和訳に挑むと、
「私はたった二冊本を持っている」
 と訳して胸を張ったりする。
 この間違いをしたのは、小学生の時から読書が好きで東野圭吾の本をよ
く読むと言っている中学一年生の女の子だった。
 私が、本当にそうかなあ、と聞くと、
「あっ」
 すぐに気がつき、
「私はたった二冊しか本を持っていない」
 と言い直した。
 ここだ。
 言葉で説明できないけれど、本人の日本語力に訴えかけたら、すぐにま
ともな日本語を引き出してくれるかどうか。
 この能力にこそ、英語の上達を左右する鍵があると私は見ている。
 だが、日本語で「たった」を使う時、たとえば、「今日はたった五人で
す」のように「たった」を文中にはめ込むだけで正しくなる場合もあるか
ら難しい。
 一筋縄ではいかない。
 それでも、私達は、日本語だけを使う場面において大きく間違えること
はまずない。だからこそ、英語という全然文法の違う外野が押し寄せてき
ても、揺るがぬ日本語力を発揮できることが重要になる。
 これが心許ないと、英語の習得が心許なくなる。教えるのに苦労させら
れる。日本語を教えるわけにはいかないからだ。
 ならば小さいうちから英会話を、と考えたくなる気持ちはわかる。
 でも、軸足を日本社会に置くつもりなら。
 先日、友達が役所への申請のことで相談の電話をかけてきた。表題の単
語を読み上げるが、その専門用語の最後の一字が読めないらしく、もごも
ご。そこまで読めたのなら、ああ、この漢字はこう読むのか、と感心する
と同時に読んでしまえそうなものだと思ったが。
 こういうことだ。
 日常生活の重要な場面で困る。
 しかも、日本語は、話して聞いているだけではテニヲハを正しく学べな
い。
 だから書く。たくさん読む。
 そうやって地道に高めるしかない。
 みんなの好きな自己責任。
 でも、ルビが復活したらいいかも。
 昔ほどは手間がかからずできるはずだし。