道徳は教育なのか

 良識のある人、という限定になるが、そういう人が一定の状況に直面
すると、自分自身の功利、損得とは別の物差しを選択する、ということ
が西洋の国だと結構起こり得るのは、よく言われるように、キリスト教
という宗教が本人の自覚の有無とは関係なく身についているからか。
 以前、フランスで、違法移民として入国した家族が強制送還を言い渡
された際、我が子がその家族の子供と同じクラスのフランス人の親達が
その決定に抗議したことを思い出す。
 彼らにとって移民の多さは喉に刺さった魚の骨。声高に批難しないが、
心の中では悩ましき存在。ましてや違法移民は。
 けれども、ひとたび自分の生活圏内でそういう人と人的交流ができあ
がると、その人だけはほかの移民と区別して、自分達同様フランスの法
律が認める人権を有すべき人、として擁護する立場になる。
 フランスの友人宅を訪れる時、もちろん手土産は持っていくが、私の
滞在中、あちこち観光に連れて行ってくれ、外食も家族のように私の分
を支払ってくれ、感謝の気持ちをどう表わしたらいいだろう、とある時、
ニホン語の「ごちそうさま」に相当しそうなフランス語を言ったら、目
を丸くされてしまった。でも、そう言えば、私がホテル代を払うから、
と来日したフランス人を旅行に誘った時、礼は言われなかったなあ。
 一方、友達の友達は友達、は本当のようで、東京在住のフランス人が
面識のない相手を一週間家に泊めなければいけない、と憂鬱そうに言っ
ていた。拒否できなかったのは、キリスト教を信じていないと言いつつ、
キリスト精神が染みついていたからだろう。
 もっとも、宗教には排他性という問題がある。自分達の教義以外は認
めぬ不寛容さがいきすぎ、戦争になったりすることもあると思うと、ニ
ホンのような優柔不断さがよく思える。
 ただし、生きる背骨はない。
 あるように見えても、その「ある」は、これは違う、と否定するもの
を寄せ集めることで、そこに当てはまらないのを正統だと認識する非言
語的曖昧さとなる。
 恣意性だ。
 恣意性は感情でどうにでもなるところが、危うい。
 小学校で道徳が正式の教科になったとか。
 道徳って何だっけ。
「ある社会で人が善悪、正邪を判断し、正しく行為するための規範」だ
そうで、要は宗教の代わりになるものってことなのかしらん。
 親は敬うべし。
 嘘付きは泥棒の始まり。
 言うのは簡単。 
 この国の大人は皆、模範生だったのね。

生きる背骨

 先週、ドラマの恋の表現は、私には海外ものの方がわかりやすく感じ
られるが、今から見る『マスケティアーズ』で解明できたらいいなあ、
と締めくくったら、その日のシーズン三、第六話が始まった途端、解明
できてしまった。
 いきなり、惹きつけられ合っていた同士の濃厚なるキスシーン。
 唇を求め合い、重ね合わせても合わせても合わせても、互いが溶け合
って一つの物体になれないのがもどかしげな二人。切ない眼差し。滲み
出る妖艶さ。
 これで二人の仲を理解できなければ、さすがにもう終わりだろう。
 が、新たにわかったことがある。
 ああいうのは普通のキスではないな。
 ドラマの中の彼らだって、私生活ではあんな表情をしないのではない
か。必要がない。
 けれども、ドラマでは、第三者に当事者の気分が伝わらねばならない。
 そのための故意なる表情、仕草。
 怜悧に計算された美の様式。
 考えてみると、ニホンだと、軽く唇を合わせるだけ、あるいは引いた
ショットで推察してもらうのが大半で、ここまで露骨で、しかし、いや
らしさはなく、ああ、本当に惚れ合っている同士なのね、と温かい目で
見てもらえる演技ができるのは、なかなかの力量だということになるだ
ろう。
 ところで、ほかにも、私は、海外、特に西洋物のドラマや映画の方が
人物の心情に共感できる、と思うことがある。
 大抵は主人公だが、究極の決断を迫られた時、その最後の最後に、損
得勘定、私利私欲、願望などを手放し、別の物差しによって行動を決め
る時だ。
 それを選んだら不幸になるとわかっていても、その道を選ぶ。犠牲的
精神などという英雄志向の自己陶酔でそうするのではない。それを選び
たくはないが、それを選ばねば、人として、一生、我が魂は救われない、
と感じて、人を超越した倫理に身を委ねる。
 そのために振り絞られる勇気。
 それが、私の心を強く揺さぶる。
 心が濁っていなければ、本来、人は誰でもそういう場面ではそう考え、
そう行動してこそ聖なる精神である、と教えられる。
 きっとできないであろう自分を感じて恥じ入り、それができる主人公
を尊敬する。
 ニホンでも似たような物語はあるが、たまたま、その人が善き人だっ
たから、そういう選択が為されただけ、という印象になる。
 人物が違っていたら結末は異なっていただろう、と感じるということ
だ。
 魂の普遍性は、ない。
 そこに、好ましき多様性よりも不安定さを見てしまうのであったか。

マスケティアーズ

 偶然、得た情報が、私の役に立ち、その賞味期限がかなり長くなるこ
とが結構ある。
 ところが、感謝の気持ちで、いつ、どこで、この情報に出くわしたの
だろう、と振り替えると、思い出せない。我ながら呆れてしまう。
 私は普段、あまりテレビを見ないしBSはなおさらだが、今晩は特別。
 十一時からBS4でイギリスの連続ドラマ『マスケティアーズ シー
ズン三 第六話』を見るのだ。
 初めて見た時は、もう『シーズン二』に入っていて、見逃したすべて
の回を残念に思ったものだった。
 なぜ、このドラマだけは見るようになったのか。
 これに関してだけは、くっきり記憶がある。
 2018FIFAワールドカップ ロシア の試合を見ている最中、十
五分の休憩時間になると、ほかの番組をあれこれ見て、このドラマに行
き当たった。
 いきなり釘付け。サッカーの後半戦が始まるのが恨めしいと思ってし
まったぐらいだ。
 それ以降、土曜の夜十一時はこの番組のための時間。
 けど、マスケティアーズって何よ。
 カタカナで書かれると、最初の三文字ぐらいで、馴染みのない単語ゆ
えか、文字の理解が付いていかなくなる。なんで英語をそのままカタカ
ナ読みで書くかねえ、その言葉からは何の感情も掻き立てられないんだ
けど、と自分の理解力のなさを棚に上げて、言いたくなる。
 なんとか覚えたけど、そうなってもやはり、この言葉は心をそよとも
動かさず、登場人物の名前も、俳優の名前も、これはカタカナでしか書
き表せないのがわかっていても、お手上げ状態になる。
 だからと言って、アルファベット表記が望ましい、と言いたいわけで
はないのだが。
 ところで、私はすでにこのドラマが終了する日が近づいているのを、
悲しんでいる。
 どの俳優も、むしろ劇の役者達、と言いたいぐらい重厚で繊細で圧倒
的な存在感がある。イギリスは、シェークスピア劇を産んだ国だったな
あ、ということが思い出される。
 だって、BBC放送がこのドラマの宣伝のために幾つか作った動画の
中の彼、彼女らを見ると、どこにでもいる普通の人に戻っているんだも
の。
 このドラマは、フランスの有名な小説『三銃士』がベースになってい
るが、恋愛も絡めている。
 恋した男女が見つめ合う時の表情。
 今日のNHKの『まんぷく』も長谷川博巳の恋の表情が素晴らしかっ
たが、マスケティアーズの方がわかりやすい、と思ってしまう私。
 西洋人のあけすけで直裁な表現の方がわかりやすいのかあ。
 それだけ鈍感ってことなのか。
 もうすぐ十一時。
 解明できるといいな。 

ピンクのスケジュール帳

 来年のスケジュール帳が店頭に並んだ。
 今私が使っているのは、開けると、横に七枡、縦に五枡のカレンダー
形式が見開きになったページが続き、次いで、一週間分が見開きになり、
平日のスケジュールは時間軸を縦に取った形式。土日も時間軸のある平
日扱いであれば完璧なのだが。最後に無地のページ。
 私の好きな仕様である。
 厳密に言うと、これを必須条件とし、印刷の線の濃さとか、これは私
は濃すぎると記入する際、視覚的に自由度が阻害されるので薄い方が好
みなのだが、かつ、いつも目に入ってくるので、やはりカバーの色、柄、
手触りは妥協できない。
 今年のは淡いピンク色が気に入って買い、なぜか去年の十月から正式
に使える作りだったので、すでに約一年使ってきたことになるのだが、
今も、この色が目に入る度、優しい気持ちになる。
 が、この手帳を取り出すと、
「意外ですね」
 私のことを深く知らないはずの人から言われたし、私のことをよく知
るいとこも、
「えー。菊さんらしくない」
 私は、キティちゃんとリンゴの輪郭が表面からへっこむ形に型押しさ
れたのが全面に散らばっているのは許容できた。しかし、その図柄に、
他の人達は衝撃を受けるのであったか。
 女の人が小さい物や微細な差を大きな違いだと認識する感性が私には
欠けているのかも。
 さて、来年度版もこういう淡いピンク色のにしたいと思った。
 メーカーのホームページには、今年のと、ほぼ同じ後継が載っている。
しかし、去年購入した店は、茶色か濃い赤の取り扱いのみ。
 他の店でも見つからない。
 メーカーは直販していないようで、購入可能な通販サイトに飛ぶよう
になっている。何度か購入したことがあるアマゾンを選んだ。
 今回はなぜか、プライム会員の無料お試しを強制選択させられるよう
になっているのが気に喰わないが、仕方ない。
 その夜、
「会員登録料金のご精算が完了していません。本日中にご連絡がない場
合、回収の手続きを開始します。受付窓口0663100490」
 というメールが来た。
 え、グルですかい。
 幸い、私は、注文後、間髪おかずに自動更新設定を解除している。
 このタイミングで、Amazonで個人情報漏洩、という記事を目撃。
 ああ、やっぱり、と納得して済むものではなかろう。
 私はガラケー
 そのショートメールに宛ててまで、こういうメールが送られてきたの
だから。
 初めての迷惑メール体験である。

言葉の宿命

 全米オープンテニスの優勝以降、大坂なおみの話題をよく目にするよ
うになった。
 しかし、新聞で、優勝セレモニーの壇上で、目深にかぶったキャップ
の下から一筋の涙が伝う大坂の写真を見て、仰天。事実の説明がないか
ら、知らない人は、ああ、優勝した歓喜の涙なんだ、と誤解しただろう。
 別の日は、優勝後の多くの祝福メッセージの中で一番嬉しかったのは
錦織圭からのメールだった、という文章。
 動画で見た帰国後の会見で、確かに彼女はそう答えていた。だが、質
問に困惑し、しばし考えたのち選んだ答えだったのに、そういう空気感
は記事からこぼれ落ちている。
 お堅くない雑誌は、もっと意図して私的な話題を偏重した記事に仕上
げている。
 会見の席で、そのパールのイヤリングは「思い入れのある品か」と聞
かれ、そうだと大坂は答えたが、聞かれるまで、そういう発想で考えた
ことはなかった、という表情を見せるも、記事では、よくぞ聞いてくれ
ました、そうなんですよ、と答えたように読める。
 自分の発言が記事になる人達が、記事を読み、なんか不本意な気分に
なる理由がわかった気がした。
 完璧に間違ってはいないけれど、仕方なく、取材者のために絞り出し
た答えが、まるで自分が積極的にそう言いたくて語ったかのように書か
れる。答えの一部分だけ切り取られて、これでは真意と違うように受け
止められかねない。
 しかし、こういうことは、無名の私達でも日常茶飯事かも。
 誰それさんがああ言った、こうした、だから私はこう思った、と話す
と、相手は、それを聞いて、意見を述べる。語られた言葉は正しいとい
う前提に立って。
 だが、どんなに正確、中立に語ろうとしても、人には心というフィル
ターがあり、事実を無色透明に見ることができない。中立に語ることは
できない。
 そこに、各人の使用語彙、という問題がかぶさってくる。
 あるいは、これは些末なことだから言わなくても、と口にしなかった
ことが、もし、それも聞かされていたら相手は意見が変わったかもしれ
ない、ということもあるだろう。
 不完全すぎる言葉。
 ところで、大坂の会見時の質問はどれもこれも低級で苛立たされたが、
この時の大坂の言葉が織り込まれた記事を読むと、よくこんな個人的な
ことまで聞き出せたものだ、と感心させられそうになる我が心の動きを
感じて、戸惑わされている。
 取材陣は皆、一致団結して、このレベルのネタ収集に一直線だったの
か。

言葉への責任

カメラを止めるな!』は観ていない。
 しかし、低予算制作、二館のみの上映で始まったのが、その後大化け
したことも、劇団の主催者が劇の内容の盗作だと主張したことも知って
いる。
 坂上忍が司会を務める昼のテレビ番組で、これが取り上げられていた。
 映画と劇の対立点を比較するパネルを見つつ、坂上忍が意見を述べた
り疑問を呈したり。
 なぜか威圧的な表情と声なのは、それが昨今の彼の専売特許のようで
ある。
 笑わない目。
 これが上司なら、まずはそういう態度で説教しておいて、最後の最後
に友好的な口調になり、剛と柔の落差の激しさで部下の心をつかむ術で
あるとして高く評価されるかもしれないが、手垢がついているし、最初
に意味なく怒ったような口調で迫られた時点で、私なら、即、拒否反応。
こんな上司は尊敬できない。が、話が逸れた。
 私が唖然とさせられたのは、坂上忍が問題の映画も劇のDVDも観ず
にカメラの前に立ったとわかった時だった。
 並み居るコメンテーター達も、みな同様。
 自分の五感で確認していないことを断定口調でぺらぺら喋っていると、
普通は、自分自身が不安になったり羞恥を感じたりしそうなんだけどな
あ。
 こういう番組は分業で、スタジオの人達は、お膳立てされた資料や情
報を打ち合わせ通りに語る、その語り方にプロの技を発揮すればいい、
ということかもしれない。
 それでも、ふと空しさを感じることはないのか。
 今回は芸能という馴染みの分野でもあったのだから、事前に両方を観
ておけば、自分なりの見解が生まれ、語る言葉はもっと重みを増したは
ず。
 なのに、平気で「観ていないけど」と言える精神。
 下手に観て、打ち合わせと違う感情を抱くことになったりしたら困る、
と自戒したのか。
 テレビの前で綺麗な打ち上げ花火を上げることだけを求められている
としたら、それって操り人形。
 真の主役は花火の仕込みの側だということになる。
 その質が、花火の出来を左右する。
 全米オープンテニスで優勝した大坂なおみへの取材のひどさがSNS
で取り沙汰されていると読み、Yahooニュースの本文も読んだが、一体、
どんな会見だったんだろう。
 動画を見つけた。
 取材陣の一人目が質問した時点で見るのをやめたくなるような約三十
五分だった。
 素人でももう少し実のある質問をする、と言いたくなる軽薄な質問ば
かり。
 日大の元アメフト選手、宮川泰介の記者会見が懐かしかった。

「普通」に知る

 前回、「はてなダイアリー」が来春で終了することをヤフー・ニュー
スで知ったと書いてから、こういう重大な情報を先に外部から知らされ
るってどうよ、私はこれでもダイアリーの発行者なんだけど、と思った
が、まずは調べることである。
 すると、メールが自動仕分けされ、私がほとんど見ない方に告知メー
ルが届いている。
 こんなとぼけた私は、あのヤフー・ニュースを見逃していたら、終了
間際になって焦らされることになったのは必至。
 助かったあ。タイミングが良かったなあ。運が良かった。
 さて、今朝はヤフー・ニュースの「“サケ弁当”に批判 料理は女性
の役割?」に目を引かれた。
 弁当レシピを動画配信している会社の「鮭弁当」のページ。
 鮭の切り身は、網で焼く方が美味しいが、朝で忙しいという前提ゆえ
だろう、手早くフライパンで油炒めし、それを、弁当箱全体に広げた炊
きたてのご飯の上にポンとのせる。
 日の丸弁当ならぬ鮭弁当。
 画面の上方に、
「妻を怒らせた次の日の」
 というタイトル。
 これが攻撃されることになったらしい。
 私は、ヤフーの見出しを読んでから動画を見、ふむふむ、妻と喧嘩を
した夫は、翌朝もその気持ちを引きずっていて、その日の弁当は最高に
手抜きを選んだんだなあ、と理解したのであった。弁当は自分自身用。
もしかしたら妻用かも。その場合は、気持ちがのらなくても君への弁当
はやめないよ、という夫からのメッセージになる。
 動画記事の後半、若い夫婦が取材に答えているのを見て、勘違いに気
づかされた。
 すごいなあ、私。
 だって、みなが普通はこう受け止める、というニホンの文化的標準か
ら、かくも逸脱している。
 フランス人夫妻の家庭を訪れた時、夜、夫がイギリスのコント番組の
DVDを見せてくれ、彼は涙を浮かべて笑い続けたが、私はきょとん、
彼の妻はしらっ。
 帰国後、東京と大阪の笑いの差、みたいなものだったのだと解釈した
のであったが、感性や感覚の土台が同じでないと、共感したくてもでき
なくなるのは間違いなかろう。
 どっぷりニホン人なのに、異質も多い私。
 それでも、肺癌末期のフランスの友の言葉には、ニホン人を代表する
反応になったと思う。
 もう自分ではほとんど何もできなくて、
「今やソファーの女王よ」
 という彼女の言葉に、
「えっ、ベッドの」じゃないの、と素朴に驚かされたのだ。
 そして、考え込まされた。
 ベッドが当然だと思うのは、普通なのか。

ありがとう、はてなダイアリー

 八月三十日、ヤフー・ニュースに「はてなダイアリー」が来春サービ
スを終了する、という見出しが出た。
 え・・・。いつまでも使わせてもらえると思っていたんだけどなあ。
 終了するのか。
 過去の記事を「はてなブログ」に移行しなくちゃいけないなあ。
 ちゃんとできるかなあ。
 これなどは、まさしく、思いもよらない外からの変化、ということに
なるが、今年に入ってから、私のみならず、友達の身にも、変化に襲わ
れて本人自身が変化せざるを得ないようなことが起こっていて、なんか、
ざわついている感じがある。
 五月十六日に天王星が七年ぶりに次の星座に移行したらしい。
 星占いの世界ではかなり大きなイベントとなるそうだが、占い好きの
私なのに、知ったのはつい最近で、迂闊であった。
 突発的な変化・改革を表わす天王星が、物質と所有の世界を象徴する
牡牛座に来て、その常識がかき回されることになるらしい。個人の生活
では、誕生時のチャートの牡牛座が司る分野が刺激を受ける。
 あ、だからなんだ、とすべてをこの星の配列で読み解くのは行き過ぎ
かもしれない。
 でも、同じ変化でも、自分が望んだわけではないのに、という場合、
振り回される感覚が強くなるが、そういう変化を天王星がもたらす、と
わかれば、じゃあ、仕方ないか、と素直に諦められるから、占いは、私
にとっては心の安定剤になってくれるのであった。
 今年、三人の友から相次いで癌を告白された。
 一人は、アメリカ在住のニホン人。手術で完治した。
 一人はパリの病院から国際電話してきてくれていたフランス人男性で、
何十年かぶりに人を介して連絡が再開したばかりで、私の電話番号だけ
伝えてもらったら、病院から国際電話が入った。その後も数回電話があ
るも、それっきりで、気になっている。
 もう一人は高齢の独身フランス人女性。スペインに家を借りて移住し
ていたが、良い家を見つけて購入を契約。その段階で末期癌が判明して
フランスに戻り、手術は不可能で抗癌剤治療を始めて約一年。明日スペ
インに戻り、家の購入手続きを済ませたらフランスに戻ってくるが、そ
の後はスペインから二ヶ月に一度フランスに戻って検査を受ける、普段
はスペインで投薬してもらう生活を始めるという。
 健常者のごとき友の逞しさが、眩しい。
 時はゆく。
 変化する。 
 好むと好まざるとにかかわらず。
 その時、どう生きる。
 立ちすくむ。
 流される。
 刃向かう。
 どれでもいいのだろう。
 ただ、精神がしなやかであるならば。

はぁ・・・? 夏時間

 昼間の蒸し暑さが引かないものだから、まだ夏のように錯覚されそう
だが、日暮れは早まっている。風がすーっと涼しくなったら一気に秋を
感じて、寂しくなるだろう。
 しかし、各地で四十度越えを記録した今年の夏を思うと、来年、再来
年の夏はどうなるだろう、と恐ろしくなるのもまた事実。
 二年後、東京五輪が七月二十四日から八月九日、パラリンピックが八
月二十五日から九月六日に開催されるということで、サマータイムの導
入が政府の与党内で検討され始めたとか。
 えぇ・・・。腕時計は手動で時刻を変えなくちゃいけないし、ほかに
もありそう。面倒だなあ。嫌だ。
 そんな個人的なぼやきで済む話ではない。
 今やITの世の中。
 夏時間に変わる直前に一つのミスもなく変更して、夏時間が終わった
ら再び戻す、と考えると、そりゃあ、業界の当事者から反対の意見が出
ても当然だろう。
 だいたい、過去に一度、夏時間の話が出て不採用になった一つの理由
に、南北に細長い日本、という領土の特殊性もあったではないか。
 夏至の頃の日の出の時刻は、那覇は五時半過ぎだが、札幌は四時前。
 全国一律で一時間早められたら困る地域が出てくることがわかるだろ
う。
 私はとても不思議に思う。
 要は、年々夏の暑さが尋常でなくなってきたことが問題なのだとした
ら、なんで、大がかりなことになる時計の針を操作する、という唯一の
発想しか思い浮かばないのか。
 人間の思考の柔軟性をもってすれば、
「この二ヶ月間だけ、仕事は九時、五時ではなくて、七時、三時にする」
と決めればいいだけではないか。
 余計なお金はいらないし、一番簡単で、一番弊害がない解決法である。
 が、強制力がないと、個々の会社や学校が、「いや、うちの社から得
意先に言うのは・・・」とか「海外の取引先との関係で、それはちょっ
と・・・」など、様子見が横行して、実現しないかも。
 ということは、国が「我が国の夏は暑いから、七月と八月の間は、日
の出の二時間後から社会全体を始動させる期間とする」みたいなことを
宣言して、交通機関などが始発前の時間帯を特別に増やし、人々がそう
動きやすいようにすれば、どうだろう。
 人々が、太陽と共に一日を始めるのだ、と頭の中で了解するわけであ
る。
 その程度の柔軟性を発揮できなくて、なにが人間か。
 この柔軟性は、森友学院、加計学園の決裁文書をこそっといじった一
部の人間の悪知恵とは全く異なる、本来的美質なのだ。

女は大変 3

 さて、海外出張中の夫から離婚を求められた友である。
 その後、私と連絡が再開した。
 友は勢いづくタイプなので、感情を優先して家を飛び出したか、と思
ったけれど、離婚は無理、と理解したらしい。
 私がインターネットで調べて紹介した弁護士事務所の無料一時間相談
に行き、過去を箇条書きした紙を見せると、ずっと専業主婦だった人が
これから働いてどのぐらい稼げると思っているのか、などと現実を突き
つけられ、
「こういう相談はありすぎて、三回で終わりにさせてもらっている」
 とも言われたとか。
 私がベンツおじさんとその知人女性に聞いた意見とほぼ同じだったの
で、納得できたらしいが、ベンツおじさんの知人女性が、
「今度、浮気の尻尾をつかまえたら、離婚したらいい。それまでは夫を
泳がせておけば」
 とさらっと述べたのが印象的だった。
 一方、弁護士は、
「離婚は、年金を分割できる七十歳まで待ちなさい」
 と言ったそうで、なんにせよ、感情が発端でも、結論は客観に委ねる
べき、という大人の賢明さを彼らは語ったわけだ。
 愛で結婚しても、いずれ、愛は環境に変わる。
 環境を成り立たせるのは、経済力。
 専業主婦は、その環境が快適なあいだは羨ましがられる立場でいられ
ても、ひとたび不穏な状況になったら、離婚が不利な立場に転落する。
 高すぎるリスク。
 だから、働く女性が増えてきたのだろう。
 男性にとってもありがたいはず。
 だって、精神的に対等な関係を望んでも、自分一人が稼ぎ手だと、
「俺が養ってやっているのに」
 と、つい言いたくなるかもしれない。
 しかし、共に家計を支え合う関係なら、そういう不遜さは芽吹かない。
 だから、東京医科大学が、医師を目指す女子の受験生を一律で減点操
作してきたと知ると、悲しかった。
 女医が増えると外科医のなり手が減る、という意見は、本当かどうか、
やってみてから言えばいい。
 外科手術を回避する予防医学が発達しないとも限らないし。
 友は、帰国した夫に、離婚したら食べていけないと伝え、夫は、友の
母親を大阪から招いて、もし今から予約が取れたら、みんなで韓国旅行
に行こう、と言い出し、離婚の話は立ち消えたとか。
 え・・・。
 友の心の騒動に捧げた私の膨大なる時間はどうなるの。
 ま。いいけど。
 でも、ダンナさん、知ってるかなあ。
 七十歳は遠すぎる。さっさと死んでくれたら、という仮定でひとしり
きり話が盛り上がった私達なのでした。

女は大変 2

 夫の不倫に心が壊れ、離婚を求めるも、夫は調停に出てこず、子供達
がまだ小さいこともあり、離婚を撤回した友。
 歳月が経ち、今度は出張先の海外から、夫が友に離婚を予告した。
 友は夫の帰国前に家を出ると言い、私は強く引き留めた。
 だって、彼女は専業主婦。
 今、家を出たら、財産分与の話はどうなる。それに、マンションの鍵
を変えられたりして、自分の物を取りに帰ることすらできないことにな
ったら、目も当てられない。
 しかし、友は、長年にわたり耐えてきた夫の仕打ちを切々と訴える。
 私は、友の思いに心が寄り添う。
 それに、彼女の母親のことがある。
 友は、母親から、万一大阪に戻って来る場合でも、実家に身を寄せる
前提では考えてくれるな、と言われ続けてきたらしい。が、今回の地震
のあと、友が離婚して家を出るのなら、東京に行くから一緒に住ませて、
と言い出した。八十を過ぎて見知らぬ町に住んでもかまわない、と覚悟
したお母さんを、どうか見捨てないであげて。
 そのためにも、先立つ物は離婚後の経済的安定である。
 友は、夫の給料も資産財産もまったく把握していない。夫はそれらを
すべて書き出すと言ったそうだが、さて、どこまで信用できるものか。
 私は、とにかく専門家に相談するように、と彼女の住む町の市役所の
弁護士無料相談二十分と、離婚の扱い件数が多いという触れ込みの弁護
士事務所の一時間無料相談を探して伝えた。
 そして、過去の一連の出来事を列挙せよ、と。
 ぐだぐだ話すより、一目瞭然。弁護士も、まともに相談に乗ってくれ
るであろう。
 と、
「書き出してみると、そんなにない・・・」
 箇条書きからは自分のその時々の心情がすっぽり抜け落ちることが、
友には不本意だったみたい。
 さて、離婚という友の未来で共感し合った翌日。
 ベンツおじさんとに会う用事があり、友のことを話してみた。夫の浮
気と、その後の夫の自宅での急死という激動を経験した女性も同席して
いる。
「あまりに立場が悪すぎる。離婚しても何の得にもならない」
 ということで二人の意見は一致。
 その夜、私は友に、離婚はするな早まるな、と電話で力説した。
 翌朝、
「一度、無になって考えてみる」
 友からメールが来て、連絡が途絶えた。
 私はひと晩で寝返ったからなあ。
 軽蔑されたかな。
 でも、離婚しないのは、小さな不幸。
 離婚するのは、大きな不幸。
 そうとわかったのに大きな不幸を推奨するようでは、真の友とは言え
まい。
 たとえ嫌われたとて。

女は大変 1

 東京医科大学の医学部医学科は、長年、一般入試で女子の受験者の得
点を一律に減点操作し、男女の合格者比率を操作してきた。
 大学が女性医師の育成を嫌ったのは、結婚や出産で休職したり退職さ
れる将来のリスクを恐れてのことだったとか。
 そうかあ。
 で、これを仕方ない、と考えたとする。
 つまり、本当に優秀な女子より、頭の悪い男子でも、彼らであれば私
生活を犠牲にして医療に専念してくれる。大学はそういう人材を求めた
わけだが、この大学だけの特殊事情ではあるまい。
 高収入は、労働基準法を遵守せずに働くことの引き替え、というのが
暗黙の了解になっているニホンの男社会。
 それに、家と切り離された職場で働くことは、家事や子育てのような
誰からも評価されない労働よりも闘争心に心地好い、という男達の本音
もあろう。
 長時間労働は、低賃金なら論外だが、高収入の場合、男達自身が雇う
側の論理にすり寄ることになるのだ。
 人の命を救う特殊な仕事だから、というのは感傷に走った自己陶酔で
ある。
 私の友は、夫が、医師ではないが、マンションを頭金なしで契約でき
るほどの高収入を稼ぐまでに至った。
 が、とっかえひっかえ不倫三昧。
 友は体調を崩し、離婚を求めるも、子供達が小さかったので断念。
 その後も、夫は、出張旅行に愛人を伴ったり。
 先日、六月十八日に大阪府北部地震があった際、その夫は、出張中の
海外から友に連絡してきて、最後に、
「帰ったら離婚の話し合いをする。お前とはもうやっていけない」
 と通達したらしい。
 友が、大阪で独り暮らしの自分の母親は大丈夫だった、と先にその話
をしたら、俺の母親は後回しか、と腹を立てたそうだが、彼の母親の近
くには妹が住んでいる。
 今回、改めて友から夫の言動をいろいろ聞かされ、あ、モラハラかも、
と気づかされた。そう気がつくと、不可解な言動がすべて腑に落ちる。
 友に働けと言いつつ、パートの仕事を見つけてきたら、
「そんな仕事は俺の恥になる」
 と訳のわからないことを言って、辞退させる。
 でも、渡すお金は最低限。
 友は家を出ると決意し、そう告げると、大阪で独り暮らしの高齢の母
親が、
「じゃあ、私も一緒に住ませて」
 と言ってきたそうで、お母さんは一人で頑張ってきたけど、本当は限
界だったんだ。友が一緒に暮らしてあげることは、母親の最晩年への最
後で最高の贈り物になるだろうな。
「もう同じ空気を吸うのも嫌。アパートを借りる」
 と友。
 さすがに、それは引き留めた。

平均寿命が伸びても

 前回「拷問死」などという物騒な言葉を使った。「人体実験」という
言葉も。
 だが、私の実感である。
 慢性閉塞性肺疾患COPDのおじが、もう駄目みたいだ、と医師から
家族が召集されるも、そのたび持ち直して、
「この薬が効きましたね」
 医師自身が驚いたように述べたと聞くと、薬の人体実験をされている
ように思えてきたのだ。
 どのみち先が短い年老いたおじのためには薬が効かない方がよかった
のになあ。
 尿が出なくなっても点滴を入れられ続け、顔は水分過多でパンパンに
腫れ上がり、その状態で命を引き取ったと聞くと、やるせなかった。
 せめて、最後の最後は、からだから、そういう一切のチューブを抜き
取ってくれることはできないのか。
 抗癌剤の点滴も、死ぬまで続けると聞いている。
 ただ、いつ命が尽きるかを、医師は正確に判断することができない。
 なのに、勝手に治療の終了したら、命に対する越権行為になるのだろ
う。
 でも、そのせいで、無用な肉体的苦しみを耐え続けさせられる患者の
ことを思うと、つらい。
 おじと同じCOPDだが、まだ在宅酸素療法に至っておらず、違う病
状で救急車で運ばれ、二箇所の病院で入退院を繰り返した友達の父親は、
退院した。体力は格段に落ちたそうだが。
 この人も、一度、危篤を宣告されている。
 ただ、入院中、普通に口から食べていたという点が、おじとは大きく
異なる。
 やっぱり、年寄りは口からものが食べられるかどうかが境目になるの
かなあ。
 人は、食べなくなり、飲まなくなり、枯れて死ぬ。それが本来の穏や
かな老衰死。
 胃瘻を渋る家族に「親を餓死させるのか」と迫る医師がいたとしたら、
それは餓死ではなく大往生への第一歩だと理解してくれてもいいのでは
ないか。
 それよりも、病気のせいの痛さ、苦しさを、もっと取り除いてほしい。
 肺が駄目になると、溺れたような状態になると表現されるが、実際に
溺れる方が苦しみが短い時間で済む理不尽に考え込まされるのだ。
 痛みや苦しさの軽減、という医療の分野は、まだまだ進歩の途上、と
いうことに気づかされた。
 ちなみに、おばは、おじが救急車を求めた時、そうせずに家でそのま
まおじを見てあげられていたら、おじは最期までしっかりと喋れて、そ
の状態で息を引き取れたのではないかと詮無い想像してしまう、と語っ
ていた。
 数値としての生存率ではなく、最期まで人間らしい生存率が伸びてこ
そ。

病院で拷問死は、いや

 七月二日に桂歌丸慢性閉塞性肺疾患COPDで亡くなり、その末期
の状況を弟子の桂歌春が語った内容をインターネットで読んだ。
 私のおじも同じ病で亡くなっている。
 果たして、危篤を過ぎて意識が回復して苦しさを実感するようになる
と、桂歌丸は、
「苦しい、楽にしてくれ」
 と言い出したそうな。
 二ヶ月間飲み食いできず、呼吸器で鼻の頭がすりむけ、呼吸は苦しく、
そういう歌丸を見て、そんな一番苦しい時に楽にさせてあげてこそ本当
安楽死ではないかと思ったという。
 やっぱり、普通はそう思うよね。
 同じ病で死んだおじを思う私。
 そして、命が尽き、すべてから解放された師匠に、
「お疲れ様でした」
 と言葉をかけた、というのも普通だ。
 が、私の中にふつふつと憤りのようなものが湧いてきた。
 その「お疲れ様でした」には、無理に延命されたあいだの師匠の苦し
さをねぎらう気持ちもあったはず。
 病気になって病院を頼った果てが、こういう死なされ方なのか、とい
う憤りである。
 今、市井の人達が語り始めた。
 認知症になり、口から食べられなくなった母に胃瘻を勧められ、静か
に最期を迎えさせてやれないかと相談したら、
「そんな場所はない、母親が餓死するのを看取れるのか」
 と医師に一喝され、胃瘻で十年以上寝たきりの末、母が逝った、とか。
 脳出血で意思疎通ができなくなった母親に胃瘻をつけ、十三年間在宅
介護して看取った人は、母が肉体的に辛くなかったかと今も葛藤が残る、
と書いている。
 胃瘻が悪者のように言われ、診療報酬も下げられ、医師は、鼻もしく
は中心静脈からの栄養注入へと誘導されているが、同じこと。
 集中治療室もそうだ。
 絶えずうるさい機械音にさらされ、人が物のように扱われる、という
だけでなく、無事に生還できたとて、ICUの非人間的な環境のせいで
後遺症が出る人が多い、とは知らなかった。
 そうと知って調べたら、別に隠し立てされた情報ではなかった。知識
がない私が、ICUと聞くと、勝手に魔法のような治療をしてもらえる
イメージを持っていただけである。
 ICUで治療しても、すたすた元気に歩けるまでの回復は期待できな
い寿命直前の年寄りを、それでもICUで治療するのは、いじめか人体
実験になりそうだなあ。
 しかも、そういうすべてが医療費を押し上げる。
 不必要な治療で肉体的に苦しめられて拷問死したくない、と願う場合、
どうすれば、病院と円満な関係を築けるだろう。

同窓会

 社会人が長くなると学生時代の同級生と再会したくなるのか、二年前、
高校の同窓会があった。それも全クラス合同の盛大なる同窓会。
 偏差値が同じだと、感性もよく似る気がして、それが安堵だ。
 この同窓会後は、誰かが帰国したとか、新年を祝って、など理由をつ
けて各地で少人数の集まりが催されるようになった。
 が、要は飲み会で、飲めないし、何よりそういう場面で付きものの煙
草が、即、私の喉と肺への凶器となるせいで、私は参加しない。
 しかし、先日の高校三年のクラスの集まりは、クラスが主催する九州
旅行の打ち合わせが目的。言い出しっぺが九州からやって来るという。
具体案が決まったら、メーリングリストで同学年全員に告知して、広く
参加を呼びかけるそうな。
 総勢約二十名。ほとんどが、もと女子。
 打ち合わせ、ということなので、顔を出すことにした。
 幹事役を指名されたもと男子が、適当な店を知らないか、と事前にメ
ーリングリストで意見を乞う。
 誰も返事しないので、私が三、四件候補を書いた。
 返答はない。
 当日。
 幹事が、
「僕、イタリアンはあかんねん」
 空に向かって言う。
「チーズが食べられへんねん」
 そう言って、私が紹介した店が集まる方向に背を向けて歩き出す。
 もと女子の多さと、旅行の打ち合わせがちゃんとできる場所というこ
とで、私が提案したのはイタリア料理など洋風のレストランであった。
 飲み屋街に足を踏み入れた途端、どこからともなく煙草の煙。
 私は、喫煙可能な店の場合は帰らせてもらう、とそばにいたもと女子
にそっと伝えた。
 面倒な条件を言い出して、と言いたげな幹事。
「チーズが駄目っていうのを聞いてあげるんやから、菊さんが煙草が駄
目っていうのも聞いてあげないと」
 もと女子の一人がぴしっと言ってくれたが、禁煙の店は簡単には見つ
からない。
 私は咳が出始めた。
 もと女子達は飲み屋でなくてもいい、という雰囲気。
 が、ホテルの地下に、喫煙可だが、私達全員が入れる個室があること
がわかって、腰を落ち着けた。
 打ち合わせは五分で終了。
 三十分ほどで私の咳は収まった。
 酒が進むにつれ、幹事は耳が悪いのかと言いたいぐらいの大声になり、
その声で語る内容は、あいつは今どこそこで何をやっている、というよ
うな話。
 にこにこ聞き入る、彼の周りのもと女子達。
 この手の話題に興味を引かれなくて済むから同じ偏差値仲間だ、と思
っていたのに。
 同級生同士だと、この話題は宿命なのか。
 二次会のカラオケは辞退して、帰った。