最善手に貪欲

 スポーツ雑誌『ナンバー』で初めて将棋の特集号が発売になるという九

月三日。書店を覗いたらあったので、買うことにした。

 四冊ある。

 二冊買った方がいいかなあ。

 保存用の一冊を求める人は、手垢などがついていない、物理的に限りな

くまっさらに近い一冊がほしいのだろう。

 私がほしくなるとしたら、文章に心打たれ、文章に敬意を表してのこと。

ほしいのは言葉。書き写せば済む。スキャンしてパソコンに保存すればも

っと簡単。

 こんな私が二冊買い、買えたはずの人を妨害することはあるまい。

 だが、将棋の記事を読み終えた翌日、二冊買っておけばよかったと思っ

た。

 と、売れ行き好調で再重刷が決まったという情報。

 ならば私が二冊目を買ってもいいわよね。

 翌朝、近くの書店で一冊注文した。店頭になく、取次店にも在庫がない

と言われたのだ。

 注文伝票はアルバイトの男子学生が担当。真摯な姿勢を寛大な眼差しで

見守るが、プリントアウトして確認してくれた雑誌の表紙の縮小写真には

『ナンバー1010号』とあるのに、『ナンバー2020』と書く。

 これで大丈夫と言われるけれど、私自身が不安なので、「藤井聡太」と

書き添えてもらい、レジ待ち客が途絶えて手が空いた女性店員に入荷時期

を聞いたら、出版社が注文を受け付けてくれるかどうかに因ると言われる。

 あいにく土曜で、月曜を待つしかないのか。

 いや。

 私は、その足で、そこより大きい書店に行き、発注を頼んだ。

 すると、人気すぎて受け付けていないと言われる。

 再重刷が決まったのに、そうなのか。

 私は、最初の書店の注文伝票の記載内容が不安で、ここで新規に注文し

てから、初めの注文をキャンセルするつもりだったが、この分では、月曜

に、出版社から回してもらえないという謝りの電話がかかってくる可能性

もありそうだ。

 不安。

 帰宅すると、大手書店のオンライン通販サイトを見た。

「販売中止」の文字。

 不安がいや増す。

 窮して出版元のホームページを見たら、注文はこちらから、とオンライ

ンサイトが表示されていて、ああ、救いの女神はここにいたのか。

 うち一つはアマゾン。新品十七点、とある。

 書店購入と同じ扱いにするためか、送料無料。溜まっているポイントが

使えるので、定価より安く手に入る。

 注文ボタンをぽちっ。

 かくして二つの可能性を手にして私は自問した。

 どっちで買おう。

 保存用の一冊を買う気になってから翌日までの顛末である。

保存の一冊

 藤井聡太の快進撃と彼の人柄に惹かれて将棋に興味を持ち、棋戦の生中
継や再放送を観るようになったが、大盤解説の人が、
「2七銀が」
 と言った言葉から盤上にその場所を見つけるのですら時間がかかる。
 その後の指し手予想は馬に念仏。
 でも、長時間の放送を付けっぱなしで流してしまう。
 解説者の予想を超える一手が繰り出された時の解説者の絶句、驚嘆を手
がかりに、
「そうか、そんなすごい手なんだ」
 と知るのが楽しい。
 新聞やインターネット記事を読み、谷川浩司羽生善治の過去のテレビ
出演の動画を観、図書館の所蔵で探して、『将棋の子』を借り、同じ作者
の『聖(さとし)の青春』を読むと、これは映画になったんじゃなかった
っけ、と調べて、今頃、映画の予告編を見たり。
 こんな私は、将棋ファンというには、かなり異質であろう。
 それでも、普通のファンの視点にも興味があり、書店で『将棋世界』を
探したら、日本将棋連盟発行の機関誌なのだから王道だろうに、取り扱っ
ていないと言われ、将棋が置かれた現状を思い知らされることになった。
 そんな中、スポーツ誌『ナンバー』が創業四十年目にして初めて将棋を
取り上げるという情報を知った。
 その九月三日。
 書店で、置いてあるならこの棚だ、という所に行ってみた。見つからな
ければ、頑張って探さない。
 情報は、もう潤沢に手にできているのだから。
 しかし、水色を背景にした藤井聡太の爽やかな表紙が正面から目に飛び
込んできた。
 ならば、世間の話題に乗っかり、買いましょう。
 四冊ある。
 私は、保存用の一冊を買ったことはない。
 ただし、人が保存用に買い置いていたのを中古品として売ってもらった
ことは、ある。
 新美南吉の『日本児童文学大系二十八』。四十二年前の発行で、その時
代らしく、箱形の函に入り、本自体にはパラフィン紙のカバー。
 こういう体裁だと、函から一度でも本を取り出せば、書店に並んだ時の
さらの状態には戻せない。
 なので、私が譲ってもらった一冊は、本当に、買ったまま長く保存され
ていたことがわかった。
 で、『ナンバー』の「藤井聡太と将棋の天才」の号である。
 話題の一冊だとしても、私が二冊買うのは、無意味にはしゃいで、浅ま
しいだけ。
 一冊、購入。
 ところが、記事を読み終わった二日後、私はこの時の判断を悔いること
になる。
 諦めはつく。でも力は尽くしたい。
 そんな欲に背を押されて、迷走の一週間が開始した。

未来の日本語

 たとえば、会社の先輩と後輩が一緒に海外旅行に行くぐらい仲良くなっ
たら、これはもう「友達」だろうか。
 でも、後輩が先輩に敬語を使い続けるなら、友達とは言えないか。
 いや、言える・・・?
 テレビで芸人が、
「歳は違うけど同期で」
 とその場にいない芸人仲間について語ると、
「で、いつから、ため口になったんですか」
 ほかの芸人が質問したので、入社時期が同じことより年齢の方が重視さ
れる価値観を知った。
 youtubeで、出演者同士、皆とても仲が良いので、一番歳下が、
「もし自分がため口で喋ったら、皆がどう反応するか」
 を検証する企画を考え、隠しカメラを回したら、ため口で話しかけると
完全無視、だが敬語に戻すと普通に返事する相手がいた。
 もっと上の人間は、会話が盛り上がったさなかにさらっとため口を紛れ
込ませたら、その瞬間、
「おまえ、俺に向かってどんな口の利き方してんねん」
 態度が変わった。
 まあ、そうだろう。
 今までの私なら、そう思ったはず。目の前の相手は誰でもyouで表現す
る単調な言語とは違うのだと胸を張って。
 だが、「君付け」に嫌悪感を感じる理由を探っていたので、心が立ち止
まった。
 言語は、それを使う人々の心を反映する。
 日本人は、相手と自分の関係性に神経過敏であるがゆえに、尊敬語や謙
譲語を発達させてきたのではないか。
 ただ、そのせいで、相手との距離感が正しい落としどころに落ち着くま
では、無駄に神経を使わされる。
 youしかない、あるいはフランス語のようにvousかtuの二者択一なら楽
なのに。
 平凡な人間は、あれもこれもと広範囲に精神を集中させ続けられるもの
ではない。
 言葉選びの第一の拠り所が年齢差になったのは、そういう理由があるの
かも。
 年齢差なら、明白。
 けれども、上だからという理由だけで理不尽に威張り散らされたら、下
はたまったものではない。
 選手に対して絶対神のごとく暴君になる監督、コーチとか。
 まあ、それは特殊な事例だと信じることにして、会話の中で、この相手
には敬語、この相手にはため口、と使い分けるのは、そこに力を奪われて、
肝腎な話の中身は浅薄になる、なんてことにはならないだろうか。
 うーむ。
 縦書きが少数派から過去の遺物へと追いやられつつある流れの中にあっ
ても「日本語愛」の私。
 なのに、その日本語に、生きづらい社会を作っている一端を見てしまっ
たら、どうしたらいい。

そうさせる日本語

 きのう、テレビを付けたら、徳島県の山奥に住む、両親と五人の子供の
七人家族の自給自足生活を放送していて、最後まで見入ってしまった。
 家で作っている野菜をパスタの具材にするために、四歳の男の子が大き
な包丁で全部切る。炒める。
 狩猟免許を持つ夫が仕留めてきた鹿は、乳飲み子以外の小学生三人とそ
の四歳児が普通にさばく。
 その肉を細かくしたのを、豚だったか、の腸に詰めたら、ソーセージ。
 魚は、夫が川に素潜りして捕まえてくる。
 養蜂をしているから、蜂蜜もある。
 サイダーが飲みたくなったら、レモングラスの葉を瓶に詰め、蜂蜜と水
を入れて数日待てば、出来上がる。
 酵母菌を増やして作る自家製パン・・・。
 サイダーの作り方は初めて知ったが、それ以外は、ソーセージも蜂蜜も
パンも、本来こう作る、という知識はある。
 知識だけだから、頭でっかち。
 ところが、この家族は、それを日々の普通にしているから、すごい。
 いつまでも見ていたくなったのは、私自身の原点というより、人が「生
きる」ことの原点を見せられている気がしたからだろう。
 もちろん、そういう日常が必須条件であったら、社会も文化も文明もこ
こまで発達はできていない。
 それでも。
 一から作る何かをひとつぐらい自分のものに出来ていれば、落ち込んだ
時などに、淡々とその作業をすることで、気を取り直して前を向く力が湧
いてくるのではないか。
 誰からも奪い取られない生きる能力、自信。
 前回、君付けへの嫌悪を書いた。年齢を盾に自分が上だと相手に知らし
めたい人は、根底に自信のなさを抱えているのではないかと。
 でも、実力の世界に身を置く人は違う。
 実際、将棋のタイトルを取ったような大御所達は、その後、力が落ちて
も、頂点に立つ厳しさを知るからだろう、台頭してきた若手に敬意を払う
姿勢と言動が美しい。
 が、そうでない棋士もいるとわかって、まあ、棋士だって人間だからな
あ、と思うも、残念だった。
 真に実力の世界でもそうなら、そりゃあ、一般社会はもっとひどいはず、
と納得できたからだ。
 人事の決定に、万人が認める透明性はあり得ない。すると、そうして誕
生した女性の上司がいた場合、それを理由に評価できない、という態度に
出る者もいるだろう。会社の中では女と若者は同義語だと思っている者達
の反応も、然り。
 年齢と、男か女かが篩(ふるい)になる。
 そうさせるような日本語、という側面はあるかもしれない。

「〇〇君」と呼ぶ心理

 テレビ番組などで、個人的に気になることがある。
 男同士の呼びかけの中に、
「〇〇君」
 という君付けが存在することだ。
 おかげで、知りたくもないのに、相手の方が発話者より年下なんだ、と
意識させられる。
 高校の同窓会の会場近くで、その後ろ姿はたぶん、と思い、
「~~君」
 と大声で呼んだ。
 果たして、その子は振り返り、私を待ってくれた。
「よくわかったねえ」
 と言ったら、
「今、僕のことを君付けで呼ぶ人間は、そうおらへん」
 そうなのだ。
 君付けは、学生時代、男子に対して使う呼称であった。
 先輩男子に君付けがためらわれる場合は、名前のあとに「先輩」を付け
る。
 でも、社会に出たら、女性からは誰に呼びかける時も「〇〇さん」。
 一方、「君」は、新たな意味を持って男同士のあいだで生き延びること
になる。
 勤めていた企業を離れて久しくなるが、名前のあとに役職名を付けて呼
ぶことが全社的に廃止され、誰に対しても、社長に対してすら「さん」付
けという組織に私はいた。
 私の上司が部下を呼ぶ時は、愛着を込めて呼び捨て。
 そこまで近しくない別の課の若者にはどう呼びかけていたのだろう。
 社外の誰かがいる場面では。
 まあ、間違っても、社外の人間を、ただ自分より若いからと言うだけで、
「〇〇君」
 とは呼ばなかったはず。
 それが平然とまかり通っているのが、テレビ業界。
 ワイドショーの司会者は、もと芸人、もと俳優だったりするけれど、そ
の出自と無関係の世界の働き盛りの人達にまで、
「で、〇〇君は」
 と呼びかける。
 不遜。
 君付けしなくても、日本語には敬語というものがある。
 敬語で話しかけられるだけで、なぜ満足できない。
 君付け使用者は、大抵、言葉と態度に横柄さが滲み出ているから、ああ、
この人は、今の地位や収入がいくら立派でも、どこか不安な気持ちがあっ
て、自分に自信が持てないんだろうなあ、と見える。
 年齢を盾にしないと自分自身を保てない。
 でも、自分と別世界の年下の者まで君付けで呼ぶのは、ほんと、耳障り。
 将棋の藤井聡太七段が棋聖になった翌日、坂上忍は、案の定、言った。
「藤井君」
 すぐに指令が入ったのだろう。
 次からは、
「藤井棋聖
 と言うようになったが、まあ、その言いづらそうなこと。
 だが、将棋界の中でも、棋聖戦で勝利したあとの藤井聡太を、
「藤井君」
 と言い続ける人がいて、驚かされた。
 八月十九日の王位戦のことだ。

友達ではない

 永遠に続くかのごとき蜜月関係に見えていたのが、内部から亀裂が入り、
呆気なく道を分かつことは、よくある。
 きっかけを作ったのではない側は、事の始まりはもちろん、事が収束し
たのちも何も語らない。少なくとも公的には。
「言いたいことはいろいろあるけど、言ったら、また話がややこしくなる
から」
 と仄めかすのが関の山。
 ところが、無関係の第三者が、
「君がもっと大人の対応をしたらこうならなかったのに」
 などと口を挟んで来て、収束させる代わりに長引かせたりする。
 これも、よくある。
 過去は学びの宝庫だ。
 それでも、実際に我が身に降りかかって来たら、理屈での理解など吹っ
飛ぶかもしれない。
 その点、部外者は、素直に学びを活かせる。
 一番は、親切心からであっても、頭を突っ込まないこと。
 わかっていて、関西テレビの『怪傑えみちゃんねる』が終了した件につ
いて振り返ってみる。第三者以上に遠い存在の私だから、というのを言い
訳にして。
 番組内で上沼恵美子に辛辣に批難されたキングコング梶原雄太は、レ
ギュラーだったが、自ら申し出て降板。ところが、それでは事は収束せず、
上沼が番組を終了すると決断するに至ったらしい。
 らしい、というのは、情報源がインターネットの記事のみだから。
 すべて鵜呑みにできるのか。
 できないとしても、教訓は見つかる。
 上に立つ者の在り方だ。
 下にちやほやされて良い気分でふんぞり返るようなら、人間的に残念だ
が、気紛れに、友達のような親密さを下に強要することがあるなら、かな
り厄介。
 権力のある者となき者は、友達になれない。
 一人で寂しい時、優しさがほしい時、まず頼るべきは配偶者のはず。
 その次は、自分と同じような立場にある別の世界の人。
 上の人間の孤高や苦しみは、同じ立場の者同士でないとわかり合えない。
 もし、そういう友達はいないと言うなら、わざと作るのを回避してきた
のだ。
 自分の弱みも見せてこそ、友。
 それをプライドが許さなかったのであれば、それはいいが、友の代わり
を下に求めるのは無理というもの。
 だいたい、もっと成長したい、精神的にも、と思っている人は、いくつ
になっても自分の前を行く人を追いかけ続ける。そういう相手との交流で
心が満ちていれば、下に対しては優しい眼差しを向けるに留まり、日頃か
ら目をかけてやっているのに、と気遣いを強要することは起こらないだろ
う。
 親と子も、もちろん、友達ではない。

頸動脈エコー

 二日続けて、どかんどかんと大地が割れそうな雷鳴からの大雨。それが
合図になったのか、梅雨が明けた。
 梅雨は季節の変わり目。私はアレルギーが発症する。
 長き梅雨の今年は薬をよく飲んだ。
 放っておいたら喘息になると言われているが、この季節の症状は鼻水。
 つつーっと出そうに感じたら、慌てて漢方薬
 二種類処方されているのを、どちらかを一包、あるいは一包ずつ、それ
でも足りなさそうなら二包ずつ。
 飲めばピタリと鼻水が止まる。
 薬は、すごい。
 だからこそ、私は海外には住めないな、と思う。この薬が手に入らない
国では住めない。
 そして、かように薬のありがたさを知っているのに、薬を常用する事態
になることには抵抗がある。薬は肝臓と腎臓で代謝されるので、この二つ
の臓器に恒常的に負担がかかることを危惧するのだ。
 私のアレルギー担当医が週に一回診療に来る内科医院で、院長から、健
康診断の結果、コレステロール値が高いと指摘された。
 二年連続。
 前回、頸動脈エコーを勧められ、断ったのは、結果次第では薬、と言わ
れたから。
 が、血管の状況は知っておいた方がいいかもと了承したら、その場で担
当の医師が来る診察日に予約を入れられた。
 五月のことだ。
 超音波検査で、脳に向かう血管と二股に分かれる動脈の血管の壁に少し
盛り上がったプラークが発見された。
 でも、LDLコレステロールも総コレステロールも前回より大幅に減り、
LDLは数値基準をわずかに1mg/dl超え。
 薬はなしよね。
 しかし、
「本当は百三十九ではなくて百十九以下でないと」
 と言われる。
 私はこの医師に対しても、薬の常用への抵抗を口にした。
 すると、安全性が検証されているから慢性病の薬なのだが、
「嫌なら飲まなくてもいい。でも、待合室の人達を見てごらん。みんな、
長生きしたいから薬をもらいに来てるんやろ」
 えっ・・・。
 一瞬、そういう人達を軽蔑しているのかと思いそうになったが、こうい
う言い方で、薬のおかげで長生きできるんだよと説得しようとしてくれた
のだと気がついた。
 まずは栄養指導。二ヶ月後に血液検査と再度の診察。
 と、横で医師の言葉をパソコン入力している看護婦が、
「あ、今、空いています」
 私はそのまま管理栄養士の元へ。
 この成り行きに、私は、運の良さより、私の身体を健康的な基準値以内
に持っていきたがる人達にまたもや困惑させられていた。
 こんな不遜な私に、二ヶ月目が来た。

棋士の会話能力

 藤井聡太棋聖
 史上最年少の若さでタイトルを獲得し、将棋界の再興を担う新星となっ
た彼は、着用した絹マスクまで話題にされる。
 肌荒れに困って絹マスクに辿り着いた私は、そのマスクのホームページ
を見た。
 外側のデザインが違うだけで、ほかは私のと同じ。
 が、夏は息が籠もるので、絹糸の織り方が違う別の絹マスクも購入して
いて、今はそちらを使っている。
 藤井棋聖は、一度で普通のマスクに戻した。
 彼のおかげで絹マスクは売り切れに。倒産危機を脱出できた販売元には
僥倖だったようだが、自身の影響力を目の当たりにして、藤井棋聖がそう
いう力は極力封印しようと考えたのだとしたら、尊敬である。
 だが、ニキビなどの対策目的で必要だったとしたら、可哀相。
 自由が制限される。
 才能ある人の宿命。
 新型コロナウイルスで外出自粛要請のさなか、何十巻も無料で読ませて
くれる漫画からユーチューブへと新ジャンルに目覚めていた私を呆気なく
卒業させたのは、やはり藤井棋聖だった。
 インターネットだと、生放送で、対局三十分前から感想戦まで途切れな
く放映してくれる。
 途中で飽きるのではと思ったが、そうならなかった。
 対局室は、対局者の扇子の開け閉めの音が聞こえるほどの静けさ。
 解説、聞き手の人が大盤を使って局面を解説してくれる。
 意味不明。でも、聞いていられる。
 王位戦第二局の途中、現地、北海道の名産品を別室から別の棋士が紹介
した時、理由がわかった。
 名産品の紹介も、普通の人がしたらこういうもんだろう、という普通。
 声が耳にうるさく突き刺さらない。
 テレビやユーチューブではあり得ない。
 NHKの『猫のしっぽ カエルの手』が過去の再編が多くなっても続い
ているのは、テレビには珍しく、そこにゆったり流れる時間が視聴者を魅
了するからではないか。
 将棋の生放送も同じ。
 普通。
 何より、やらせがなく、編集がないのが、いい。
 対局者が長考したり昼休みのあいだ、どうするんだ、と思ったけれど、
場を繋ぐ会話力に長けた解説、聞き手の人。
 男女の場合は、恋人同士のたわいない会話のように聞こえることがある。
 私は、パソコンを立ち上げている時は、音量を下げてつけっぱなす。
「え、そこに打ったんですか」
 驚く解説者の声で、その局面を目撃したいのだ。
 ルールを覚える気はない。
 でも、つけておきたいと思う将棋の放送。 
 卒業はなさそうな気がしている。 

将棋、囲碁、百人一首、花札

 将棋界に天才が現われた。
 三十年ぶりに最年少タイトル獲得記録を更新した、藤井聡太棋聖
 彼は、幼い頃、囲碁には興味を示さなかったが将棋にのめり込んだと知
り、将棋、囲碁百人一首花札など、日本の古典的な遊びを家庭で子供
に伝承するのは、当たり前すぎて声高に語ることもない常識なのか、など
と思ったのは、我が過去を振り返ってのことである。
 が、これだけで一般論化するのはいきすぎかも。
 うちでは父が与えてくれた。
 将棋と囲碁は、木製の原寸大だが二つ折りタイプ。今もある。今も遊べ
る。
 もっとも、百人一首は「坊主めくり」。
 囲碁は「五目並べ」。
 将棋は、桐箱の片側に駒を全部入れ、その箱を盤の上に逆向きに置き、
息を詰めてそうっとはずし、そこに現われる駒の山から駒を一つ、山を崩
さぬよう取ってゆく「将棋崩し」。
 あるいは「ひょこまわり」「はさみ将棋」。
 花札だけだ、子供ながらも正しいルールで遊べたのは。
 それでも、五目並べには結構はまった。毎晩、父に相手をしてもらい、
定石を覚え、負けると、勝つまで挑む。
 五目並べは数手先ぐらいまで読めたら十分だし、紙と鉛筆があればでき
るので、フランスで校長宅で滞在中、紙に枡目を書いて説明したら、校長
が食いつき、毎晩、楽しんだ。
 が、化学の高校教師の奥さんは、途中で勝負を投げ出すし、横で見てい
るだけなのはつまらない、と無言の圧力。
 この夫婦に花札を教えるのはやめた。
 花札は嵩張らないので、万一の時用に持参していたのだが。
 これは、女友達宅に招かれた夜、夕食のあと、テーブルに広げて見せた。
 旦那の眼が輝く。
 夫婦と私の三人というのは理想的な人数である。
 短時間で決着が付くから、飽きたらすぐにやめられる。
 二、三回の練習で、二人は役も完璧に覚え、すぐに本番。
 しかし、
「もう一回」
「もう一回」
 旦那が言い、お開きになったのは深夜三時過ぎ。
 ところで、なぜ私は、将棋は、自己裁量で却下したのか。
「将棋崩し」は幼稚すぎて論外だが、「ひょこまわり」や「はさみ将棋
も駄目なのか。
 駒は全部は使わない。
 それでも、漢字が読めない人達は、読めず意味もわからぬことが心にひ
っかかり、ゲームを面白がれない気がしたのだ。
 でも、一度、検証したくなってきた。
 ちょうど、校長夫婦は、今年、日本を訪れる。
 そのはずだったが、コロナのせいで旅は延期に。
 まあ、そのうち。
 気長に待とう。

折りたたみ傘

 七月八日の朝、蝉が鳴いた。
 そして、すぐに鳴きやんだ。
 次は今朝。少し長く鳴いた。
 けど、続かない。
 雨は、降りそうだが降っていない。
 晴れたらすぐにも鳴く競演を始めたい蝉達だろうに、雨ではない、とい
うだけでは駄目なのかな。
 でも待ちくたびれて、間隙を縫って鳴いたのか。
 目下のところ、私が間隙を縫ってするのは、洗濯物を外に干すこと。
 少しでも雨の止み間があったら、生乾きのままのに風を当てたい。
 一方、買い物に行く時は、雨雲レーダーで今後を確認。
 が、先日、少し長く時間がかかったら、帰る時、雨が降っている。じゃ
じゃぶり。
 傘はない。
 九州豪雨は東にも広がっているのに、無謀だった。
 百均でビニール傘を買おうか。
 でもなあ。
 前に、傘立てに入れておいたら、中高生が出入りする場所で、帰り際、
残っているのはぼろいビニール傘のみ。触っただけで違いがわかったから、
暗がりであることは取り違えの言い訳にならないと思うも、その傘を使う
しかない。
 あとで捨てた。
 こんなことがあったので、ビニール傘には警戒心がある。
 長い傘は、家に、私が買ったのが二本。
 折りたたみ傘は家にあるのを使ってきた。それで間に合うから。
 でも、自分で買ってもいいかも。
 フランスにいた時、知人の奥さんが、誕生日に旦那さんにサングラスを
買ってもらうとサングラスをしながら語ったが、しているサングラスは彼
女にとてもよく似合っているので、なぜと訊ね、夫婦に苦笑された。
 物は、その寿命を最後まで使い切ってやることだけが正しい接し方とは
言えないのかもと、この時、少し思った。
 でも、人はすぐには変われない。
 先日、デパートの財布売り場で、お札だけを入れるほぼ幅のない薄い長
財布は、別売りのカード専用ケースをこうして長財布の中に入れたらいい、
と店員に説明され、気が惹かれるのがあるかなあと見ていたら、近づいて
きた年配女性が同じように探しつつ、
「今、私が使っているのもおんなじでね」
 と見せてくれた。
「とても使いやすくって」
 と言うので、思わず、
「じゃあ、それで十分じゃないですか」
「そうよね。無駄買いするところだったわ。ありがと」
 私は、店の売上げを阻止してしまった。
 そんなことを思い出しつつ、スーパーの傘売り場で税抜込み千百円の折り
たたみ傘を買い、差して帰った。
 あ、今、蝉がまた鳴き出した。
 湿度に感応するのかな。
 買い物に行けるかな。

覚悟

 たまに叔母から電話がかかってくる。
 一人暮らしの寂しさが極まると、私を思い出してくれるらしい。
 独身は都合良く扱われる、とひねて受け止めたりしない。どういう理由
であれ、求められるのは嬉しい。
 このところの叔母の話題は新型コロナウイルスだ。
 怖いから、なるべく買い物に出ない。
 帰ってきたらドアノブを拭く。
 買ってきた物は袋を拭きまくる。
 外出自粛要請が解除されても家に逼塞していれば、話題は毎回同じにな
るだろう。
「それでいいやん」
 と私。
 が、私もそうしているかと聞かれると、
「していない」
 叔母が息を呑む。
 叔母には徒歩圏内に住む娘がいる。よく一緒に買い物に行っていたが、
今はその娘や孫とスマホで連絡し合うだけだとか。濃厚接触になるのが怖
くて、叔母が拒否しているのだ。
 でも、電話なら安心。
 ところが、叔母がコロナの感染が怖いと話し始めると、娘は、
「じゃあ、毎日仕事に行っている私はどうなるん」
 すぐに話を遮るらしい。
 でも私はちゃんと聞くから、叔母は喜ぶ。
 しかも、私が叔母を理解するような相槌を打ったからだろうか。叔母は
期待したのかも。
 が、叔母のこだわりは尊重するが、私自身はそちら側にいないと私が表
明したものだから、叔母は混乱。これだったら、叔母の側にいないから叔
母の言うことやることに批判的な娘の態度の方が納得いったかも。
 でも、それだと、この世は敵か味方かの浅い二分類しかなくなる。
 ただ、
「そうするのが正しいとわかってるんよ。でも、できない」
 と叔母が言うと、またもや、
「それでいいと思うよ」
 と応じるも、私は苛立った。
 だって、出口を塞いでおいて、出たいけど出られないと言われたら、お
手上げ。
 出口は見えるが、出ないと決めた。
 あるいは、出口が見えたから、出ることにした。
 どちらを選んでも、自由だし正解。
 けど、選べないって何。
 覚悟はどこに行った。
 覚悟しなくて済む状況にあるってことなのだろう。で、暇だから、思考
をもてあそぶ。
 つまりは、それが今のあなたの幸せ。
 そんなことに気づかせてくれる叔母。
 ちなみに、マスクで顔がかぶれたので、インターネットで探して注文し
たと話したら、
「年寄りには無理」
 と言うので、
「だから言ったやん。私が叔母ちゃんの分のマスクも除菌スプレーも買っ
たって」
 と言ったが、じゃあ、久しぶりにランチにでも行こ、と私を誘ってくれ
るには至らなかった。

マスク弱者

 ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領が、公共の場でのマスク着用を
命じる法律を無視して裁判沙汰になっているが、私も今、できればマスク
をしたくない気持ちだ。
 春。
 ようやく見つけて買ったひと箱五十枚入りの不織布のマスクは、中にガ
ーゼのハンカチを折り畳んで入れて使っていた。
 すると、見知らぬ店から手作りマスクが届いた。知人がその店に依頼し
て、送ってくれたのだ。
 その後、アベノマスクが到着。
 でも、イオンでわざわざお金を払って買ったのは、ワゴンの前の人だか
りに焦ったのと、ちょうどインターネットで知ったイオンから夏用マスク
が発売になるという情報が重なったから。
 一応、レジで確かめて、買った。
 が、別物だった。
 私の聞き方が曖昧だったのかもしれない。
 ただ、「個別包装三枚入り」と記載があるが、開けたら、そうでなかっ
たので、返品できたと思う。
 そうしなかったのは、「全日本婦人子供服工業組合連合会」という販売
元が電話番号と一緒に載っていて、理性に不安がなだめられたのだ。
 が、顔が痒くなった。
 はずしてからも痒さは引かず、マスクが当たっていなかった部分まで痒
みが広がる。
 やばっ。私はアレルギー体質。
 症状は主に咳、鼻に出るが、何年か前に、突然、化粧水が肌に染み、ク
リーム状のもの以外を一切受け付けられない深刻な状況に陥ったことがあ
る。今も季節の変わり目には肌が痒くなる。
 高温多湿の梅雨には、どんなマスクでもこうなる私だったかも。
 マスクが品薄の頃は、ガーゼのハンカチを折り畳むだけで縫わないマス
クを使っていたので、それに戻せばいいと思うも、既製品でないマスクは
白い目で見られそうで、弱気になる。
 マスクで肌荒れする直前、オンラインで注文したのは化学繊維で、四枚
も頼んだ。肌に合わなかったらどうしよう。
 改めて天然素材で探し直し、シルク素材のを注文した。これは二枚。
 現物を手に取り買えるなら、まずは最小単位を買って、良ければ買い増
すが、オンラインだと、送料などを考えて、いきなり複数買い。無駄遣い
に終わるリスクが高まるのが、なんだかなあ。
 さて、注文した二種類が届くまでの今、私は知人がプレゼントしてくれ
たマスクを使っている。
 レーヨン製だが、これも駄目ならアベノマスク。
 綿素材が、サイズや付け心地を抑えて、安全牌に浮上したのだ。
 でもさあ。
 ねえ、誰か。
 マスクに代わる優れ物、発明して。

絵葉書

 もはや前近代的代物になった感のある国際郵便で文通している友が、一
人いる。フランスの片田舎に住むその友はパソコンを持っていないのだ。
 私は白い紙にパソコン打ちという素っ気なさ。
 一方、彼女からは、毎回、絵葉書。ちゃんと封筒に入っている。バカン
ス先からの絵葉書以外はそうするのものらしい。
 で、内容だが、私は頭を絞って話題を捻り出す。
 しかし、彼女の文面は、過去のも最新のも大差がない。時事の話題はな
く、かと言って私的な話もない。
 互いに一ヶ月程度で返信するようになっているが、私が送った四月三日
の手紙への返信が一ヶ月以上経っても届かない。少し不安になり、それか
ら、このまま自然消滅でもいいか、と思った。
 前回の渡仏で再会してから月日が経ち、文通だけで繋がっているのもな
んかなあ、という気持ちになることはあり得る。
 などと思っていたら、六月一日に絵葉書が来た。
 続いて十八日にも。
 私からの返信が遅いと、私の手紙と入れ違いになるリスクを冒して二通
目を送ってくることのある彼女だが、これほど矢継ぎ早の二通目というの
は、ちょっと変。
 私の四月の手紙を五月二十七日に受け取った、と書いてあった。
 フランスは五月十一日に外出自粛が解除になったが、それから二週間後
にようやく私の手紙は配達されたのか。
 すごいな、フランス。
 その間、彼女にしてみれば、私から数ヶ月音沙汰がなかったことになる。
業を煮やして、婉曲に催促すべく書いて送ったら、その直後に私の手紙が
届いたのだろう。
 よくある笑い話だ。
 ただ、一通目を読んでも、これは私の手紙を受け取っていないんだな、
と思えるようなちぐはぐな文章ではなかった。
 いつもどおり表面的な内容。
 かくも中身のない私達の文通。
 ゆえに私は、自然消滅もよし、と思ったのだろう。
 つまりは内容。
 いや、それは間違っている。
 読むに足る内容を必須条件とするなら、会う時は会うに足る会話、電話
する時は電話するに足る内容・・・ということになる。
 そうではなく、取るに足りない会話や無言でも心地好いから友達なので
はないか。
 話し下手、書き下手。それでも友達。そういうことだ。
 手紙は、次に会う時までの気軽な、でもとっても大切な縁繋ぎ。
 それに、気が滅入った時などに絵葉書を広げて眺めると、私を思い浮か
べて選んでくれたであろう彼女の気持ちがうわっと広がり、私は優しく甘
やかしてもらえるのだった。

湯シャン

 私は、年に二回ぐらいしかヘアサロンに行かない。
 高校時代までは直毛だったが、その後、本性が目覚めたのか、癖毛にな
った。
 髪質は猫毛に。
 癖毛で猫毛だと、かなり厄介。
 猫毛ゆえ、頭のてっぺんの髪の毛は、しょっちゅう静電気を帯びたみた
いに逆立つし、癖毛ゆえ、雨の日は、髪がぺしゃんとなる代わりに大きく
広がる。
 だから髪の毛が多いと錯覚されるが、実はずいぶん減った。
 シャンプーのたびに抜けるのだ。
 そんな中、「湯シャン」を知った。
 シャンプーなどを使わず、お湯で髪の毛を洗うだけだという。
 そう言えば、昔の時代を描いた海外ドラマで、女性が長い髪を、沼の水
で洗うだけの場面があった。太古の時代、人類は、まずは水で洗ったのだ
ろう。湯を使い始めた時はかなり革新的だったかも。
 頭皮を十分マッサージし、髪の毛を梳き、なるべく汚れを落としてから、
シャワーで髪の毛を洗った。
 その初めての日。
 髪の毛がほとんど抜けない。
 そうか。シャンプーのせいで髪の毛がごそっ、ごそっと抜けていたのか。
 いつか髪の毛がなくなるのでは、と不安に駆られていたのが嘘のよう。
 洗った髪をドライヤーで乾かす。
 それでも髪がぱさつかないのは、髪の油分で一本一本が潤うからかもし
れない。
 シャンプーなしで臭くないのか、という命題は、友達に判断を仰ぎたい
が、新型コロナの外出自粛が終わったとは言え、まだ誰とも会えていない。
 でも、私の髪質には湯シャンが合っている気がする。
 外側の髪の毛が好き勝手にもわもわ浮いて、ぼやけた輪郭をつくるよう
なことはなくなったし。
 それでも、髪の毛の重みで髪が収まるようにする方がいいだろうから、
引き続きロングヘア。
 よって、今後も、ヘアサロンに行くのは年に二回程度になるだろう。
 今はアレルギーを抑える漢方薬のおかげで、店に入った途端、充満する
ヘアケア製品の匂いに刺激されて、咳が止まらなくなることはなくなった
が、単に薬のおかげにすぎないのだ。
 でも、そろそろ髪を整えてもらいたい。
 行きつけのヘアサロンは、相変わらず休業中という張り紙。
 たかが裾を揃えてもらうだけでも、馴染みの店で切ってもらいたい。
 まさか、このまま閉店突入、なんて、「づぼらや」のようなことにはな
らないよね。
 夕方、突然友から連絡があり、少しの時間だが、お茶してきた。
 話すことが多すぎて、今日は私の髪の匂いを嗅いでもらうまでには至ら
なかった。

吊さないドライフラワー

 夏はシャワー。
 いくら風呂が好きでも、入った途端ゆだりそうだと感じたら、温泉でも
ない限り、しばしお預けである。
 が、そうなる前からシャワーに切り替えたのは、ササッと汗を流せば済
むので、寝る準備の時間を短縮できるからだ。
 本当にもう風呂は無理、と実感したのは、わずか二日前だ。
 昼間はTシャツの下で発熱している自分自身の体温を感じ取れるように
なったし。
 朝起きたら、これも二日前から、羽毛布団が半分ベッドからずり落ちて
いる。
 暑くて蹴り落としたんだな、私。
 当たり前か。
 今年、寒い冬のさなかに、私ははたと閃いて、冬用の羽毛布団が入って
いる布団カバーを開けて、中に夏用の薄い羽毛布団を入れた。
 そうできる余裕がありそうだと布団カバーを睨んで推察したのだったが、
大正解。
 おかげで暖かさが増した。
 しかし、そんなダブルの暖かさが六月まで必要なわけはない。
 今日、ベッド関連の総衣替えをした。
 曇で湿度は高いが、きのうのような汗ばむ蒸し暑さではなかったからだ。
洗濯は、カラッと晴れた日にまとめてしよう。
 それにしても、冬用と夏用の羽毛布団をダブルで使うと閃いたとは、我
ながらすごい、と思い返して一人悦に入るのは、独創的な閃きだったと酔
いしれるからではなく、ほしい結果がその方法で手に入ったからだ。
 普通はどこかで見聞きした情報を頼る。
 困るのは、一つの目的に対して複数の情報に出くわす時だ。
 かすみ草は、ぽろぽろと小さい花が落ちるので家で花瓶に生けたい花で
はないけれど、新型コロナウイルス中に、花農家を応援するため、普通で
はあり得ぬ本数が安く売られた。
 安さに負けて、購入。
 それを白いスターチスの入った花瓶に生けてから、ふと、ドライフラワ
ーにできないかなと思った。
 これから夏。
 生花はすぐに駄目になる。
 でも、ドライフラワーだったら。
 インターネットで調べて、花瓶に差したまま枯らしていくという方法に
心が惹かれた。
 逆さに吊すのは、よっぽど雰囲気のある所でないと、きっと汚い感じに
なる。
 花瓶の中で、かすみ草とスターチスは綺麗なドライフラワーになってく
れた。
 これに味を占めて、色のアクセントを加えるべく、青いスターチスを購
入。しっかし、こちらは花の首の所から折れるのが多発して、なんでだろ
う。
 ところで、情報といえば、私にとって最大限に有益だったのは、シャン
プーで髪を洗わないという「湯シャン」だった。